私には,いわゆる「共感力」というものが無い。時々思うことだ。
普段書いていることを見ていれば何となく分かると思うが,私は,あまり多くの人と同じような生活をしていない。これは昨日今日始まったことではない。10代の初め頃からずっと,私はこんな調子で生きて来てしまった。
反共感としての KNS
思えば,私が KNS なんてものを発明したのも,この共感力の無さによるところが大きい。
私には,主にマイクロブログ系の SNS を消極的に使っていた時期がいくつかあり,そういう時期に私を見かけた人なら分かるかもしれない。私の SNS の使い方は,基本的に独り言を延々と垂れ流す,というものだ。しかも,自分で考えた造語や翻訳語をちりばめて,だ。
最初からこうだったわけではない。最初に SNS に接したのは20歳そこそこで,その頃は周囲に合わせようとしていた。ところが,使っているうちにある問題に気付いた。同じような年頃の人達が,自分とは全く違う生き方をしているということだ。
例えば当時,よく若者の間で盛り上がっていた話題といえば,就職氷河期下での就活だとか,日本社会への悲観論だったりした。
それが私には全く分からなかった。当時の私は,希哲館事業を始めばかりだった。ろくに学校にも行かず17歳で輪郭法を閃いた私は,定職につく気も無く,どうすれば世界史上最大の企業を創り,日本を世界史上最大の極大国に出来るかということで頭が一杯だった。
「もう日本は駄目だ」「英語を勉強して日本を出よう」などという悲観論が渦巻いていた SNS で,ただ一人,「これから自分が日本を世界の中心にする」と希望に満ち溢れていたのが当時の私で,要するにずっと変わっていないのだ。最初はそれがズレていることにも気付いていなかったと思うが,流石にだんだん周囲との空気の違いが分かってくる。
SNS というのは,多くの人にとっては仲間を見つけたり,共感しあったりする場なのだろうと思う。私にとっては,使えば使うほど,自分がいかに世界の中で孤立した精神の持ち主か,ということを思い知らされる場だった。単純に,あまり面白いものではなかった。
共感と商売
共感力の無さというのが現実的な問題になるのは,やはり「商売」を考えた時だ。デライトも,多くの人に気に入ってもらい,そこから利益を生み出そうとしている,という意味では立派な商売だ。
ところが私には,人の欲望というのもあまりよく分かっていない。男性で言えば,金が欲しいとか,女性にモテたいとか,そういうのが欲望の典型なのだろう。しかし,私はその手の感情を抱いたことがほぼ無い。
厳密に言えば,金が欲しいとは思う。ただそれは事業のためだ。希哲館事業の理想を実現するためには,「兆円」の単位では足りない。最低でも「京円」の金が動かせるようにしたい。そういうことはよく考える。
その一方で,私的な金銭欲には乏しい。希哲館事業を始めた当初から,私は自身も含めて全執務員の給与・報酬を「世の中の平均的な水準」にすることを決めている。つまり,どれだけ希哲社が利益を上げようが,私は月に数十万円程度の金しか受け取らない。
別に我慢をしてそうするわけではない。それが清貧思想とか社会奉仕のパフォーマンスなら,アメリカ企業がよくやるように1円の報酬でいい。私は別にそういう“思想”で金が要らないわけではない。本当に,人並程度の収入で十分満足に暮らしていけると思っているのだ。
しかし,商売をする上で,人の欲望の流れを感じることが出来ない,というのは致命的かもしれない,と思うこともある。金が欲しいという人の気持ちも,女性に囲まれて嬉しい人の気持ちも分からないのだから,少なくともそれで釣るような商売には全く向いていない。
人間そのものへの共感
ではどうすればいいのか。これまでの生き方はいまさら変えられない。
でも,私にも共感出来ることはある。それは,枝葉ではなくて,人間として誰もが持つ普遍的な部分への共感だ。例えば,人が転んでいるのを見れば痛そうだと思うし,泣いているのを見れば可哀そうだと思う。幸せそうにしていれば何となく嬉しい気持ちにもなる。
人間のどこかではなく,人間そのものへの共感を深めていく,そんなことに希望を見出したい。