
貧困に陥いるのは努力が足りないからだ,という類の自己責任論を支持する人は,大まかに三つの層に分けられる。分かりやすいのは,そもそも大衆がそう考えてくれていた方が都合が良い層,伝統的な既得権益を有する,いわゆる支配層(エスタブリッシュメント)の一部だ。
もう一つは,社会的弱者の立場から成り上がり,「努力」を信仰するようになった層だ。こういう人達は,自分もあんなに苦しい環境から這い上がったのだから,貧しい人は単に努力が足りないだけだ,と考えていることが多い。良く言えば純粋な人達である。これも分かりやすい方だ。
興味深いのは,支配層でもなければ成り上がったわけでもない,ごく普通の人,あるいは社会的弱者に近い立場の人が,意外と自己責任論を支持しているという現象だ。特にリベラルと呼ばれる人達にとってこの現象は不可解なようで,「なぜ自分達を苦しめる政府を支持しているのか」などと頭を抱えている光景をよく見る。
しかし,我々大衆の立場から見れば,これはごく自然な現象なのだ。
「庶民」とはそもそも,「地道に働いて自立する」こと以外に生きる術を持たない人々である。我々は,先祖代々,子供の頃から,真面目に働いて自立することこそ大人になるということなのだ,と教え込まれ育ってきた。例えば,社会人になった多くの人が,なぜわざわざ必要もない一人暮らしをするのかと言えば,独り立ちの通過儀礼だと思われているからだ。これは一種の文化的遺伝子なのだろう。
こうした庶民にとって,みんなで理想郷を作り上げよう,というリベラル的な考え方は,どうしても胡散臭く聞こえてしまうのだ。たとえ貧困に陥いろうとも,自分達が受け継いできた文化を捨てることの方に直感的な危機感を覚えてしまう。
昔から貴族の子弟に共産主義者が目立ったのは,自身の恵まれ過ぎた境遇に罪悪感を抱き,弱者に同情しやすい立場であり,夢想している時間も心の余裕もあるからだ。現代でいうリベラルの指導層にも似たところがあるが,いずれにせよ,この差はしっかり理解しておかないと大衆を味方につけることは難しいだろう。
