言語としてのエスペラントはこの 100 年でかなり変わったけど、Plansprecheprojekte としての部分は不可触なまま保たれてきた、などということができると思う
{あれ K#7D71/601C}
自分自身が信頼できない語り手であるとき、実質的に全ては信頼できない語り手である(し、私は現にそうした信頼できなさに苛まれているように見える)
{あれ K#3FD3/DD46}
私は会社にいる。
電話がかかってくる。
相手は特に名乗らず、
「イシバさんはいらっしゃるかしら?」
と言う。
たしかにイシバという者は会社にいるが、別な部署であり、しかも部長だ。
「どういったご用件ですか?」
「○○さんが云云かんぬんで~」
イシバ部長にそういう話が来るはずがない。
間違い電話ではないか?
こういう気づき方もある。
しかし「イシバ部長にそういう話が来るはずがない」が、確認を行う。私の「そんなはずない」が間違っている可能性はある。私が知らないだけで、イシバ部長は先方がさきほど言ったようなことも扱ってるのかもしれない。
「イシバというのは、うちの経理部長のイシバでよろしかったですか?」
「え?ちがうわよ。○○のイシバさん……」
そこで、その電話が転送されたものだと分かる。
前提のズレ。
相手が「イシバ」と呼ぶ人について持っている前提と、私が「イシバ」と呼ぶ人について持っている前提がズレている。
- 同じ苗字の別人は沢山いる。イシバさんはこの世にたくさんいる。
- イシバの業務と先方の話す事柄にあまりに開きがある
- イシバの話し相手にしては話し方が云々だ。内容以外についてのズレた印象
{あれ K#3FD3/D6F4}
私に間違い電話がかかってきた場合、
- 掛け手は私のことを他の誰かさんだと思い込んでいる。
- 場合によっては私の方で、掛け手が私(たち)に何か用事があると思い込むこともある
- 多くの場合、私は直ちに間違い電話だと気づく。
どうしてすぐに間違い電話だと気づくのか?
- 相手が呼びかける名前が自分の名前と異なるから
- さらに言うと、そもそも、電話の最初で相手がこちらの名前を呼ぶからこそ、それに気づく
- 相手がはじめに名乗る名前をこちらが知らないから
しかし、それだけではない。
{あれ K#3FD3/5644}
あれの卑近な例としての間違い電話。
不適切な振る舞いの例。
間違い電話をとったときに、
(間違い電話だと分かっているのに)相手の要件を「はい、はい」と聞いて、
いいだけ聞いてから「すみません、間違い電話です」と言うべきではない。
相手の話を遮ってはならない……という規範がある。
間違い電話という概念を使うことで、この規範を無効化してもかまわない……という規範がある。
すなわち、相手の話を途中で遮って「あの、間違い電話かと思います」と言ってもおかしくない。
むしろ、相手の話を最後まで聞いて、「なるほど。ちなみに、間違い電話かと思います」と言う方がややおかしい。
ただし、それはおかしかったりおかしくなかったりする。
例えば、相手の要件を最後まで聞き届けた後「なるほど。あー、すみません。もっと早くから言えばよかったのですが、たぶん間違い電話かと……」と言っても相手が戸惑わないことは想像しやすい。
間違い電話の要件を間違い電話だと気づきつつ最後まで聞き通してもおかしくないことはあるのだ。それをおかしくないこととして互いにとって妥当させるにあたり、〈相手の話を遮ってはならない〉という規範が持ち出される可能性もあるだろう。例えば、間違ってかけた側が、「こういうのって遮りにくいですもんねえ」と言うことによって、いわば規範の競合がありえたという人間的事情が互いにとって理解可能なものとして提示される。
{あれ K#804C/49E0}
携帯電話会社のCMに、意味無くしゃべる白い犬が出てきても、「なぜ犬がしゃべるのか? 携帯電話と犬の一家に、どういう関係があるのか」と、聞くのは野暮でしょう。
ソフバンのCMには陰謀論が囁かれている。何らかの意図がありそうなのはみすず学苑と似ているが、何の意図があるのかと直接聞くのが野暮というのは確かにそうだ。
{あれ K#EDD2/A52F-392E}
ピーマンを切ってたら爪がそげた。あっぶね。
出血はしていないが、爪の形状がひも状のものに引っかかりそうで良くない感じだ。