{希哲16年11月29日の日記 K#F85E/E74C-EA45}
宇田川浩行dlt.kitetu.com
}{デライト2周年}{難}{一段落}{一編}{研究}{話}{今}{形}{英語}(600){デライトの歩み K#F85E/E74C-09D2}
宇田川浩行デライトは,今年の2月13日に2周年を迎えたばかりの若いサービスだ。しかし,その背景には長い長い歴史がある。詳しく書くと書籍数冊分くらいにはなる話だ。デライトの完全な成功を目前にした良い頃合いなので,駆け足で振り返ってみたい。
輪郭法の閃き
技術としてのデライトは,私が17歳の頃,主に哲学と情報学への関心から「輪郭法」を閃いたことに始まる。2002年,もう20年前のことだ。デライトにおける輪郭法の応用については,「デライトの使い方の考え方」で出来るだけ簡単に解説したつもりだが,本来の輪郭法は,“輪郭という概念を中心にした世界の捉え方”であり,哲学用語でいう「弁証法」に近い位置付けの概念だ。
このアイデアが,哲学上の理論に留まらず,極めて実践的で,極めて強大な技術になりうることに気付くのに時間はかからなかった。これを応用することで,計算機科学における長年の最重要課題を解決し,知能増幅(IA)技術の実用化につなげることが出来る(参考)。すでに IT 産業の勢いが明らかだった当時,これは“世界史上最大の成功”と“知識産業革命”への道が開けたことを意味していた。
さらに,アメリカ同時多発テロ事件が起こって間もない頃だ。後の英米政治危機,世界に広がる社会分断,SNS の暴走,そして目下のウクライナ侵攻を予感させる事件だった。
あらゆる争いの背景には,世界の広さに対する人間の視野の狭さと,それによる“心の分断”がある。当時から私はそう考えていた。我々は,世界の一部分をそれぞれの立場から見ているに過ぎない。立場が違えば見える世界も違う。その衝突を回避出来るとすれば,個々人の世界に対する視野を広げるしかない。輪郭法の応用技術にはその可能性があると感じていた。この考え方が現在の KNS という概念につながっている(参考)。
葛藤
この閃きは止まるところを知らなかった。17歳の少年の人生観も世界観も,何もかもを瞬く間に作り替えてしまった。この閃きをどこまで大きく育てられるか,それだけを考える人生になった。適当に金に換えることも出来たかもしれないが,世界にかつてない平和と豊かさをもたらす鍵を手に入れたようなものだ。中途半端な売り物にすることなど,現実には考えられなかった。能う限り最高の状態で世に出さなくてはならないと思った。
もちろん最初は,とんでもない宝くじに当たったような気分だった。天にも昇る心地とはこのことだろう。どんな人生の喜びも,この喜びには勝るまい。少しばかり時間が経ち,冷静になるにつれ,呪いのような重圧に苦しむようになった。
{希哲16年2月15日の日記 K#F85E/E74C-6B05}
宇田川浩行昨日就寝直前から中規模程度の脳爆発が連鎖し,難しかったデライトの課題が3つも,24時間のうちにほぼ解決してしまった。久しぶりにひどい,もとい,見事な脳爆発だった。
収拾をつけようとしてはいけない規模の連鎖なので,まとめは明日に回し,早々に寝支度を始めた。脳爆発の制御が上手くなったのも喜ばしいことだ。第四次黄金状態の定常化もすぐそこだろう。
希哲館事業における言語開発が上手く行っている理由として,希哲館事業構想の「大局観」とそれを支えるデルンの存在がある,とちょうど考えていたところだった。言語開発は,大局観が重視されてきた囲碁や将棋に似ていることにも気付いた。
この脳爆発が壮大な記号のパズルを完成させた時,棋士の気持ちが分かった気がした。
今日はちゃんと事務的な用事を片付けてきた。ついでに気持ちの良い天気の下でサイクリングも出来た。
やりたいことが多過ぎたので,コロナ対策の外出自粛にかこつけて希哲荘に篭りがちになっていたが,そろそろ5分でも毎日の散歩を再開したい。デライト2周年という大きな区切りを経て少し心境も変わってきた。
面白いもので,ちょっと運動不足になってきたと思ったら就寝直後にトイレに立つことが多くなった。血の巡りの影響が分かりやすい。
パンくず記法の使い方も熟れてきたため,今日から日記・副日記にも使ってみることにした。基本的に自分が読むものなので無くて迷うことはないが,たまに前景が雑多な輪郭で埋まって面倒なことはある。
{希哲16年2月13日の日記 K#F85E/E74C-DA33}
宇田川浩行デライトも2周年を迎えた。希哲14年2月13日24時15分,なんとかデライト正式離立に漕ぎ着けた時の生々しい感覚は今でもよく覚えている。
今日を「デライトの早期成功」の目安としたのは昨年9月7日,金風が起こるわずか11日前のことだ(9月7日の日記)。金風で状況整理が困難になった後は,組計上ほとんど唯一の目印になっていた。
そして今,デライトは非常に評価の難しい状況にある。手放しで成功と言うには収益額が低過ぎるが,不成功と言うにはあまりにも理想的な状況にある。
金風後に「デライト収益目標達成」を「デライト収益乗軌化」に改め,一時的な収益額よりも持続的な成長軌道に乗せることを重視するようになった(11月1日の日記)。その点に限れば成功したと言えなくもない。当時の想定より低過ぎる収益額にもかかわらずそう思えるのは,金風がそれだけの時間稼ぎをしてくれたからでもあり,目先の金銭以外の収穫が想定をはるかに越えて多大だったからでもある。
今のところ,デライトにも希哲館事業にも不安はない。とっくに収益面以外では理想的な状態にあったのだから,まさに「鬼に金棒」だ。
今は黄金状態を極力維持し,黄金循環を加速させ続けることくらいしか新しい目標も思い付かない。もう人類の限界というか物理的な限界に近い気がするので,これ以上無理をしても早死にするだけだろう。
成功したのかどうか,頭で考えようとすると訳が分からなくなってくるが,とりあえず気分は最高だ。
それを象徴するかのように,今日は“空を飛ぶ夢”から目覚めた。人間が腕をばたばたさせると鳥のように飛べる世界で,仲間に混じって自分もやっと飛べた,という新鮮な夢だった。
昔から,希哲館事業を背負う自分は飛べそうで飛べない幼鳥みたいなものだと思っていた。それはもどかしさでもあり,嬉しさでもあった。何せ,希望を持つことすら絶望的な事業として始まったのだから,飛び立つ希望を持てるだけで奇跡のようだった。
それが本当に飛べるようになるというのは,奇跡の先の奇跡,夢のまた夢が現実になるようなことだ。今は訳が分からなくて当然なのだろう。
{希哲16年2月13日2歩 K#F85E/E74C-8B19}
宇田川浩行dlt.kitetu.com
}{デルン10周年}{デライト2周年}{熱}{一要素}{日記}{意味符号化}{原点}{デライト}(147){希哲16年2月10日の日記 K#F85E/E74C-FE31}
宇田川浩行10年前のこの日,デルンに最初の描出をした。それがデルンの始まりとするなら,今日でデルン10周年だ。
大小様々な追い風を受け絶好調な今のデライトも,この第一歩が無ければ存在しなかった。そう思うと,色々な感情が溢れてくる。
最近,あらゆる面でデラングがデライト開発の主役になっていると感じていたが,それが何故なのか,実は理解が追いついていなかった。直感に導かれるままここまで来た。この節目にデルンの歴史,輪郭法の歴史を振り返ったことで,ようやくはっきり理解出来た。
輪郭法の原点は,「意味を書きたい」という欲求だった。“意味記述のための意味管理”を可能にするために輪郭法は生まれた。その閃きが,希哲館事業のビッグバンだった。
だから,意味記述の技術であるデラングが重要なのは当然だ。それを忘れていたわけではないが,どこかでデラングの重要性を過小評価していた。輪符による意味符号化が出来た時点で,あとは「おまけ」という感覚があった。気付いてみれば,これがとんでもない誤解だった。
輪符による意味符号化が出来たところで,それだけでは活用範囲は広がらない。デラングの表現力を高めるということは,意味を書ける領域を広げるということに他ならない。私にとって,何より本質的な仕事だ。今の今まで,これが理解出来ていなかった。
デラングによる対 Markdown 戦略をデライト市場戦略に組み込みながらも「第四次デライト市場戦略」にしなかったのも,明らかに全知検索に代わって黄金循環の中心になっていることを感じながら「第二次黄金循環」とすべきか迷ったのも,この無理解のせいだった。
理解出来てしまえば迷うことは何も無い。今日から希哲館事業の中心はデラングであり,第四次デライト市場戦略の始まりであり,今は第二次黄金循環の真っ只中なのだ。
今日は考える余力が無いが,これまでの,新生デライトの一要素というデラングの位置付けも見直す必要がありそうだ。いずれにせよ,“デライトのためのデラング”ではなく,“デラングのためのデライト”になることは間違いない。デライト開発における言語論的転回,「デラング的転回」とでもいうべきか。
既にデラングは独立した言語という位置付けを持っているため時間の問題ではあっただろうが,デラング文書はドメインも dlt.kitetu.com から切り離し,dlng.kitetu.com などとして公開することも決めた。
デラング開発には,CnD 開発や Synx 駒手,知機駒手開発,希哲館訳語や交度英語の整備などで培った経験と技術を幅広く活かせること,高度非言語思考を支援するデルンが欠かせないことも感じていた。しかも,なかなか世に出せなかったこれらの技術・献典よりずっと世に出しやすい性質を持っている。希哲館事業における言語開発の集大成とするに不足はない。
デライト収益乗軌化も目前,デルン10周年,3日後にはデライト2周年という節目にこの気付きを得たことに大きな意味を感じる。脳爆発の噴煙で悪くなっていた視界がまた一気に開けたようだ。
生活律動矯正中ではあるが,この日記だけは熱が冷めない内に書いておきたかったので夜更かしした。
{希哲16年2月1日の日記 K#F85E/E74C-7E3D}
宇田川浩行デライト2周年のことばかり考えていたが,今年でデルン10周年になることを思い出した。
デルンにはデライトと異なり離立というものがなく,希哲6年に少しずつ動き出したものなので,明確に始まったと言える日時があるわけではなかった。
最初の描出は希哲6年2月10日(C++ウェブ開発向けライブラリ)だが,これは確か手定め程度のもので,2月中の新規描出は6輪しかない。それからしばらくのあいだ描出が無くなり,実用化と言える程度に描出が増えるのは正式に K#F85E を登録した4月30日からだ。細かいことはさておき一番早くみれば2月10日でデルン10周年,その3日後にデライト2周年ということになるか。
もう10年かと思いかけたが,これまでに得たものの多大さを思えば,まだ10年,たった10年だ。その内のたった2年でここまで来たデライトの進歩の速さにも驚かされる。
{希哲15年9月7日の日記 K#F85E/E74C-895A}
宇田川浩行10日まで様子見をするつもりだったが,少し早めに,10月中のデライト収益目標達成に向けて組計調整することを決めた。
昨日察知した状況の変化により,先月29日の日記に書いたような「デライトの長期停滞」の懸念が後退し,無理に今月中の達成を目指す必要はなくなった。となれば,より確実な方を取るべきだろう。
当然,達成が早いに越したことはないので,引き続き,落ち着きながらも適度な緊張感は保って新生デライト開発を進めていく。
ここに来て,「デライトの早期成功」という概念について再考する必要を感じた。10月の収益目標達成が早期成功というのはいいとして,11月や12月なら早期成功ではないのかというと,それも違和感を覚える。
そう考えてみて,自分の中で,主観的な基準と客観的な基準が混在していることに気付いた。振り返ると,常に大体3ヶ月以内の収益目標達成を目指してきた。その時々の状況に合わせた結果として,それぐらい先の見えない道を歩んできたということでもある。収益目標達成が半年先や一年先になるということは,常に考えたくない「遅さ」だった。
希哲館創立14周年(11月1日)までの収益目標達成というのも,昨年11月に十分な猶予として決めたものの,結局はその遅さに耐えられず早めては延長を繰り返し,結果的に最近では早期成功の目安になっていただけだ。
つまるところ,これまで「早期成功」と呼んでいたのは,「現時点から3ヶ月以内くらいの収益目標達成」のことだった。だから,いま11月や12月の達成を遅いとは感じないわけだ。
ここで,「客観的な早期成功」とは何か,について考えた。状況を引いて見た時に,どこまでが大っぴらに早期成功と言えて,どこから言えなくなるのか。
まず思い浮かんだのは,「デライト2周年」(希哲16年2月13日)だった。サービスの成功という観点からいえば,離立から2年未満で十分な収益化を果せば早い部類と言えるだろう。それを過ぎると中途半端,微妙な印象になってくる。