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{ちょっと面白い K#F85E/E74C-C743}
この界隈ですら,「内容に名前を付けて書く」という(ごく常識的な)発想がまだまだ根強いなあ。
デライトは,「内容に名前を付けて書く」以前の,名前はあるけど内容を書く時間がないことや,内容はあるけど名前のないことを書けることを重視している(そうでなければ知能増幅技術としては「遅過ぎる」)ので,そこをどう理解してもらえるか,が一つの鍵なのだろう。が,この調子だといつになるやら。
「あれ」がずらっと並んでいるのを見た時,ただ分かりにくいと感じるか,その特徴によって名前を付けにくいことも大量に書き出せている(その人の思考を知る手がかりが残せている)のだと考えるか。内容も名前も「書かなくていい」だけで「書けない」わけではないので,他の媒体では形にならないことがデライトでは形になっているだけなのだが,初見者にはそれがノイズに見えてしまうというのは,ナノブログ普及の壁。
ただ,マイクロブログも最初は情報量の無いページが乱立しているサイトにしか見えなかったわけで,時間の問題だろうとは思っている。

{あれ K#F85E/E74C-E61E}

{短文録 K#D657/C1F1}
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blogには「Web」を接頭しているのにこちらにそうしないのは非合理的では?
しかし「短Web文録」というのは語感が悪すぎる。

{あれ K#F85E/E74C-0FCE}

{あれ K#F85E/E74C-ECCE}

{デライトの使い方の考え方 K#F85E/E74C-20C0}
デライトには「使い方」というページがあるのだが,これは最初の頃からまともに更新出来ていない。デライト開発もありがたいことに快調で,いちいち更新していられないほど変化が激しかった。このあたりも近日中に刷新するので,もうしばらくお待ち頂きたい。
もっとも,多くのデライト初心者が躓いているのは,細かい操作方法というより,どういう考え方で使っていくものなのか,という所なのではないかと思う。デライトで躓きやすい「使い方の考え方」について,このあたりで少し補足しておきたい。
デライトは風変わりで慣れが必要なものではあるが,特に難解なものではない。開発者の力不足による不親切さは多々あるものの,あくまで誰でも使えるものを目指している。まずは,ちょっとしたゲームのルールを覚えるつもりで読んでもらいたい。
なぜ「輪郭」なのか
デライトは,個人の知識をよりよく育て,生活の様々な場面で役立ててもらうためのサービスだ。それを突き詰めた結果として,互いに入れ子に出来る「輪郭」という単位で情報を扱う仕組みを持っている。
ここでいう「輪郭」というのも,まずはごく普通の言語感覚で理解してもらえればいい。ある物事の全体を取り囲むもの,という意味だ。もっと具体的にイメージしたければ,手で輪っかを作り,目に見える風景の一部分を切り取って見てほしい。写真の構図を考える時などに似たことをよくやるが,その時に手で作っている輪っかは,世界のある部分の輪郭だ。
その輪郭を,自由に“保存”出来たらどうだろうか。輪郭の中にまた輪郭を作ることも出来る。一つの輪郭は,他の無数の輪郭を含むものであると同時に,他の無数の輪郭に含まれるものになる。そのようにして,“世界を捉える”ことは出来ないだろうか。さらに,この考え方をコンピューティングに応用することで,従来の情報管理が抱えていた問題を解決出来るのではないか。ここからデライトの輪郭という仕組みが生まれた。
例えば,ファイルをフォルダ(ディレクトリ)という入れ物で分類管理する仕組みは広く使われているものの,人間が頭の中で扱っているようには情報を扱えない。一つの物事をどこに分類するかは,見方によっていかようにも変わりうるからだ。これは,一つの情報を一つの入れ物に所属させるような「階層構造」一般の問題(こうもり問題)としてよく知られている。
他方,こうした問題を解決するため,より柔軟な「ネットワーク構造」(グラフ構造とも)を利用した仕組みも広く使われている。Wikipedia などで利用されているウィキはその代表例だ。ウィキは,ウェブのハイパーリンクという仕組みを最大限に活かし,縦横無尽にリンクを張り巡らしながら情報を整理出来るように設計されている。しかし,こうした技術も万能ではない。柔軟な分,散漫・乱雑になりがちで,焦点を絞って情報をまとめることには向いていない。

{SNS の限界と言論の自由 K#F85E/E74C-37F2}
Twitter 買収騒動で,SNS における“言論の自由”についての議論が再燃している。
相変わらず誰もが SNS 上の規制について考えているわけだが,そこに誰もが納得出来る結論はなく,水掛け論の域を出ていない。これからもその域を出ることはないのだろう。表現の自由・言論の自由についての議論は今に始まったことではない。
私自身の考えは昔から一貫している。SNS における表現の自由が問題視されるのは, 発信の質に対して発信力が強過ぎるからだ。それが中傷やヘイトスピーチ,デマといった問題になっていくわけだ。SNS の構造的限界なのだから,その構造を変えてしまうしかない。
「KNS」(knowledge networking service)を標榜するデライトは,世界で初めて,理論的かつ具体的な SNS の構造改革を提案をしているサービスだ。
見ての通り,デライトは Twitter のようなマイクロブログに近い感覚で利用することが出来る。では何が違うのかというと,知識を蓄積する機能を持っていることだ。デライトは,個人がよりよく世界について知るためのメモ機能と,それを基礎とした交流機能を提供している。これがつまり KNS だ。まだ小規模ながら,実際に新しい知的交流が生まれている。
世界史的に見れば,SNS というのは衆愚政治に陥った古代民主主義の再現だ。民衆の発言権が強くなると,民衆を煽動しようとする政治家が現れる。彼らは「デマゴーグ」と呼ばれ,その煽動行為は「デマゴギー」と呼ばれる。いわゆる「デマ」はこれに由来する。
デマゴーグ達によって混迷に陥った古代社会を批判するように,ソクラテスやプラトンといった哲学者達が現れ,西洋思想の源流となっていった。こうした経緯から西洋思想にはエリート主義の伝統が根強くあり,大衆による直接民主主義は軽視されてきた。それから紆余曲折あって,エリートと大衆の折り合いを付けた間接民主主義が定着し今にいたる。
エリート任せでも大衆任せでも社会は上手く行かない。人類が長い勉強の末に到達したこの秩序を,技術で破壊し,古代に逆戻りさせたのが SNS だ。SNS で人々を煽動して支持層を固めれば,一足飛びに権力を得ることが出来てしまうわけだ。
だからといって今更エリート主義には戻れないだろう。大衆が愚かなのが悪いというなら,大衆が「皆で賢くなる」しかない。KNS は,そんな不可能そうなことを可能にする唯一の道具だ。「万人による万人のための知性主義」という,世界史上最大の課題に対する真正面からの解答なのだ。
