結果としての mimic に対する議論は色々あって良いと思うし,法整備されないまま,良くも悪くも破壊的な技術が出来ることに対する不安を抱く人がいるのも無理はないのだが,「完璧な体制を整えていないのは怠慢だ!」というのは現場を知らな過ぎるなという感想。
{あれ K#F85E/E74C-C5CE}
宇田川浩行{SNS の限界と言論の自由 K#F85E/E74C-37F2}
宇田川浩行Twitter 買収騒動で,SNS における“言論の自由”についての議論が再燃している。
相変わらず誰もが SNS 上の規制について考えているわけだが,そこに誰もが納得出来る結論はなく,水掛け論の域を出ていない。これからもその域を出ることはないのだろう。表現の自由・言論の自由についての議論は今に始まったことではない。
私自身の考えは昔から一貫している。SNS における表現の自由が問題視されるのは, 発信の質に対して発信力が強過ぎるからだ。それが中傷やヘイトスピーチ,デマといった問題になっていくわけだ。SNS の構造的限界なのだから,その構造を変えてしまうしかない。
「KNS」(knowledge networking service)を標榜するデライトは,世界で初めて,理論的かつ具体的な SNS の構造改革を提案をしているサービスだ。
見ての通り,デライトは Twitter のようなマイクロブログに近い感覚で利用することが出来る。では何が違うのかというと,知識を蓄積する機能を持っていることだ。デライトは,個人がよりよく世界について知るためのメモ機能と,それを基礎とした交流機能を提供している。これがつまり KNS だ。まだ小規模ながら,実際に新しい知的交流が生まれている。
世界史的に見れば,SNS というのは衆愚政治に陥った古代民主主義の再現だ。民衆の発言権が強くなると,民衆を煽動しようとする政治家が現れる。彼らは「デマゴーグ」と呼ばれ,その煽動行為は「デマゴギー」と呼ばれる。いわゆる「デマ」はこれに由来する。
デマゴーグ達によって混迷に陥った古代社会を批判するように,ソクラテスやプラトンといった哲学者達が現れ,西洋思想の源流となっていった。こうした経緯から西洋思想にはエリート主義の伝統が根強くあり,大衆による直接民主主義は軽視されてきた。それから紆余曲折あって,エリートと大衆の折り合いを付けた間接民主主義が定着し今にいたる。
エリート任せでも大衆任せでも社会は上手く行かない。人類が長い勉強の末に到達したこの秩序を,技術で破壊し,古代に逆戻りさせたのが SNS だ。SNS で人々を煽動して支持層を固めれば,一足飛びに権力を得ることが出来てしまうわけだ。
だからといって今更エリート主義には戻れないだろう。大衆が愚かなのが悪いというなら,大衆が「皆で賢くなる」しかない。KNS は,そんな不可能そうなことを可能にする唯一の道具だ。「万人による万人のための知性主義」という,世界史上最大の課題に対する真正面からの解答なのだ。
{希哲16年2月4日3歩 K#F85E/E74C-1671}
宇田川浩行〈lightweight language〉などにおける〈lightweight〉には素直に「軽量」を当てることにした。
例えば〈lightweight markup language〉は「軽標記言語」と訳していたが,見慣れない翻訳語と組み合わせると,原語がぱっと浮かんでこない。これは「軽量標記言語」の方が無難だろう。
そもそも〈lightweight〉に「軽〜」を当てるようになったのは,希哲7年頃に〈lightweight language〉への「軽言語」という翻訳語を考えてからだ。
論組言語においては,スクリプト言語の類を「軽量言語」と呼ぶのに抵抗があった。デルン開発でも鈍重な PHP から Cμ に書き換えて間もない頃だったし,ツバメ開発でも余計なパッケージが必要なことが多い論組言語は「荷物」だった。「軽量」が人間の負担の軽さを表すものだとしても,論組では実行速度の遅さが心理的な負担になることも多いわけで,違和感が拭えない。そこで少し抽象的な語感になる「軽〜」を使い始めた。
ただ,標記言語の場合は実行速度などの問題がないせいか,物量的な軽さという意味合いが強い「軽量」でもあまり違和感がない。むしろ抽象的な「軽〜」を使う方がその長所が霞んでしまう表現になる気がする。
そもそも,「軽量」という表現に問題があるとしてもそれは翻訳語の責任ではないし,そこを意訳すると〈lightweight〉という表現をめぐる議論も参照しにくくなる。
{あれ K#F85E/E74C-4838}
宇田川浩行{あれ K#F85E/E74C-8282}
宇田川浩行{あれ K#F85E/E74C-9AC2}
宇田川浩行{日本はどう逆転するか K#F85E/E74C-3C71}
宇田川浩行昨日の一日一文では高度経済成長期以後の日本の盛衰について分析してみたが,今日は,そんな日本がどうやって中国を抜き返し,アメリカをも凌ぐ世界史上最大の極大国となりうるのかについて書いてみよう。
アメリカは脱工業化に成功し繁栄を極め,日本は工業にしがみつき凋落した……物語はここで終わったわけではない。ジパング計画という“新しい物語”が始まるのはここからだ。
あての無い家出
私は,これまでの世界で起きた脱工業化という現象を「あての無い家出」と表現したことがある。とりあえず工業中心から脱してはみたものの,落ち着ける先が見えていないからだ。脱工業化は世界にとって時期尚早だったかもしれない,という雰囲気は実際に広がりつつある。
それを象徴するような二つの出来事が同じ2016年に起きた。イギリスにおけるブレグジット決定,アメリカ大統領選挙におけるドナルド・トランプ当選だ。私はこれらに象徴される英米政治の混迷を「英米政治危機」と呼んできた。
そしてその背景にあったのが,情技(IT)産業をはじめとする知識産業の隆盛に伴う工業の衰退,格差拡大,国民分断だった。世界経済と脱工業化の先頭を走っていたアメリカ,そのアメリカを生み出したかつての超大国であるイギリスが同時に似たような危機に陥ったことは偶然ではないだろう。
産業革命から近現代を牽引してきた両国の産業構造はもちろん,政治や文化にも通底する何かの限界が,ここに来て露呈したのだ。
トランプ政権下のアメリカでは,まさに脱工業化の煽りを受けたラスト・ベルトに支持され“再工業化”の動きすら見られた。それは,あてのない家出から“出戻り”してきた少年少女のような,心細いアメリカの姿だった。
近代と工業,そして新近代化へ
一般に,国民国家や間接民主主義・資本主義といった現代社会の標準的な体制が形作られた,18世紀頃から20世紀頃までの時代を「近代」という。
{日本はなぜ繁栄し,なぜ衰退したのか K#F85E/E74C-C2D6}
宇田川浩行昨日の一日一文では,日本人と独自性などについて書いた。その中では,日本人の性格における負の側面を強調してしまったが,もちろん,日本人にも良い面はたくさんある。
私が「ジパング計画」などと言って日本を最重要視しているのも,その日本人の性格を活かし,アメリカや中国に大逆転勝ちする道があると思っているからだ。
ある程度定常的に存在している事物には全て,進化論的な存在理由がある。つまり,この世界のいつかのどこかに適応しやすかったから存在しているわけだ。これは人間の性格についても言えることだ。
ある場面では勇敢で大きな功績をあげた人が,別の場面では無謀な行動で身を滅ぼすことがある。ある場面では臆病で役に立たなかった人が,別の場面では慎重さで成功することもある。性格というのは,状況や環境で良くも悪くも見えるものだ。
日本の盛衰
1980年代頃には,日本は世界最強の工業国だった。人口規模などの問題で「超大国」にこそならなかったが,超大国アメリカを凌ぐ富豪や企業が輩出し,金持ちといえば日本人だという時代が確かにあった。工業の時代がずっと続いていれば,日本がアメリカを凌ぐ超大国になるのは時間の問題だったはずだ。
ところがこの1980年代というのは,すでに「脱工業化社会」の到来が広く議論されるようになっていた時代であり,アメリカでは水面下で脱工業化に向けた産業転換が始まっていた。言うまでもなく,その中心は情技(IT)産業だった。
「シリコンバレー」が注目されるようになったのは70年代からだ。90年代になると,クリントン政権によって情技を中心とした産業改革が推し進められていく。「工業では日本人に勝てない」と悟った80年代のアメリカ人には,脱工業化という,あえて進むべき茨の道が見えていたわけだ。
日本はといえば,90年代初めにバブル崩壊という憂き目を見て,「失われた三十年」とも言われる長期停滞が現在にいたるまで続いている。
情技産業に牽引された中国が日本の GDP を抜いてからもう10年以上経つが,昨年には,GAFAM(Google,Amazon,Facebook,Apple,Microsoft)などと呼ばれるアメリカ情技企業数社の時価総額が,二千社を越える東証一部上場企業全体の時価総額を上回った。