昨日,高度非言語思考について書いたが,これには落とし穴がある。
言語を伴う思考というのは,いわば他人との“キャッチボール”だ。意思疎通出来る範囲内で,他人に伝わるように考えを組み立てていく。それは制約でもあるし,社会生活をしていく上で必要なことでもある。
高度非言語思考は,そういった社会性を放棄して思考の自由を手に入れる手段だ。出家するならまだしも,普通に社会生活を送ろうとする者にとっては危険な行為でもある。
私はそれによって輪郭法を手に入れているが,それからしばらく精神的混迷に陥った。世間の人とは全く違う精神を持ってしまうと,まず「普通に生きる」ということが不可能に近くなる。かといって,これを活かして生きるというのも至難の業だ。その狭間で悩んだ挙句,自殺寸前まで追い込まれた。
もっとも,こうして語る人間がいてそれを真似するのと,何の手掛かりもなく一人で抱えてしまうのとでは危険性も大分違うだろう。希哲館は灯台のようなものだ。