私は12歳頃から変わった道を歩むことになったので,これも岐路といえばそうかもしれない。ただ,意識的にこの道を選んだわけではないし,その後のことも全く想像出来なかった。なんとなく迷い込んだという感じだ。
分かれ道を前に立ち尽くすような人生の岐路という意味では,やはり17歳の頃を思い出す。「閃き」で輪郭法と希哲館事業の青写真が出来た頃だ。
希哲館事業に進むべきか,その気持ちを押し殺して普通の人生に進むべきか。どちらを選んでも困難は目に見えていた。結局,決心して希哲館事業発足にいたるまで4年ほどかかった。希哲元(2007)年のことだ。
次の岐路は,希哲6(2012)年,デルンの実用化直前のことだった。
当時の私は,何かと縁に恵まれ,個人事業主として好条件で司組開発の仕事をもらったりしていた。このまま無難に仕事を続けるか,思い切ってデルン開発に注力するか,という岐路だ。
この時は,あまり迷いもなくデルン開発を取った。希哲館事業を始めた時点で,私の目標は,とりあえず世界史上最大の企業を創り知識産業革命を実現することだった。それすら最終目標ではない。このまま無難にやっていれば,そこそこの大企業を創るのが関の山だろうと思った。
デルンの実用化成功とともにそれまでの仕事は全て止め,デルンを育てることに注力するようになった。それから更に8年ほど経った希哲14(2020)年,デルンはデライトとして世に出る。
そして今年,開発が上手く行き,デライトの成功も時間の問題という所まで来て,また一つの岐路があった。じっくり時間をかけてデライトを成功に導くか,多少リスクが増してもデライトの成功を急ぐか,という岐路だ。
もちろん,私はデライトの成功を急ぐことにした。デライトの成功は,希哲館事業の成功の過程に過ぎない。デライトだけが成功しても意味がなかった。これは「デライトはなぜ成功を急ぐのか」でも書いた通りだ。
結局,私は無難な道を選ぶということが出来なかった。希哲館事業の成功への希望が残るかどうか。17歳の頃から,それだけが私にとっての死活問題だった。どんなに安全だろうとその希望がゼロなら私は生きていられないし,どんなに危険だろうとその希望がわずかにでもあれば生きていける。
今のところは環境のおかげで良い暮らしが出来ているし,見通しも良いが,生き方そのものがとんでもない綱渡りには違いない。そう考えてしまうと,具体的な心配もないのに先が思いやられる。