{『希哲日記』}{日記}{}{38歳}{希哲17年5月26日}{生きたい}{やり直したい}{自分の若さ}{蔑んでいた}{20歳そこそこ}(92)

{希哲17年5月26日の日記 K#F85E/E74C-9284}

今日休めないかと思ったが,意外と良い感じ肩の力が抜け最低限のまとめ作業だけしてゆっくり過ごせた昼頃散髪出かけ帰ってから誕生日であることに気付いた折角の誕生日くらいはと自分に言い聞かせ半休にしていた。

珍しいこと重なるもので,久しぶりに大きめの地震もあった。


38歳という年齢には,思っていたほど感傷感慨無かった強いて言えば38歳という若さよくここまで来られた思う。これは希哲館事業巨大さゆえの感情だろう。大事業にとって人生どれだけ短い散々思い知らされてきた

若さというのは本当に相対的なものだなと最近よく思う20歳くらいの若者もう若くないなどと嘆いている滑稽思えるが,自分が10代20歳そこそこだった若さ満喫出来ていたかというと,そんな余裕無かった無力もがき,幼さ憎み蔑んでいた自分の若さ楽しめるようになったのは30代からだ。

老いへの恐怖後悔似ている少なくともあの頃戻ってやり直したい思うことが無いのは幸せなことなのだろうし,これからもそういう最善の日々生きたい一昨日友人話していてそれを再確認した

{英語}{一日一文}{KNS}{デライト}{SNS}{20歳}{17歳}{10代}{希哲館事業}{希哲15年5月の一日一文}(80)

{人間への共感 K#F85E/E74C-BE3A}

私には,いわゆる「共感力」というものが無い。時々思うことだ。

普段書いていることを見ていれば何となく分かると思うが,私は,あまり多くの人と同じような生活をしていない。これは昨日今日始まったことではない。10代の初め頃からずっと,私はこんな調子で生きて来てしまった。

反共感としての KNS

思えば,私が KNS なんてものを発明したのも,この共感力の無さによるところが大きい。

私には,主にマイクロブログ系の SNS消極的に使っていた時期がいくつかあり,そういう時期に私を見かけた人なら分かるかもしれない。私の SNS の使い方は,基本的に独り言を延々と垂れ流す,というものだ。しかも,自分で考えた造語翻訳語をちりばめて,だ。

最初からこうだったわけではない。最初に SNS に接したのは20歳そこそこで,その頃は周囲に合わせようとしていた。ところが,使っているうちにある問題に気付いた。同じような年頃の人達が,自分とは全く違う生き方をしているということだ。

例えば当時,よく若者の間で盛り上がっていた話題といえば,就職氷河期下での就活だとか,日本社会への悲観論だったりした。

それが私には全く分からなかった。当時の私は,希哲館事業を始めばかりだった。ろくに学校にも行かず17歳輪郭法いた私は,定職につく気も無く,どうすれば世界史上最大の企業を創り,日本世界史上最大の極大国ハイパーパワーに出来るかということで頭が一杯だった。

「もう日本は駄目だ」「英語勉強して日本を出よう」などという悲観論が渦巻いていた SNS で,ただ一人,「これから自分が日本を世界の中心にする」と希望に満ち溢れていたのが当時の私で,要するにずっと変わっていないのだ。最初はそれがズレていることにも気付いていなかったと思うが,流石にだんだん周囲との空気の違いが分かってくる。

SNS というのは,多くの人にとっては仲間を見つけたり,共感しあったりする場なのだろうと思う。私にとっては,使えば使うほど,自分がいかに世界の中で孤立した精神の持ち主か,ということを思い知らされる場だった。単純に,あまり面白いものではなかった。

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{ロックスター}{かっこよくない}{希哲14年6月30日}{希哲14年6月30日のツイスト}{日本の情技業界}{ツイスト}{言い方}{技術力}{乱暴}{必要}(14)
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{自由民主党}{希哲13年5月2日}{希哲13年5月2日のツイスト}{ツイスト}{自民党}{若者}(6)

{あれ K#F85E/5B28-7DAC}

自民党的な若者文化への媚び方,昔からどうしても違和感があったのは,「若者ってこれで喜ぶんでしょ?」みたいな浅さを感じること以上に,当の若者が意外にチョロかったからなのだと思う。結局,若者=鋭敏な感性と反抗性,という自分の先入観よりも,老いた政治家達の方が現実を掴んでいたという。

{年齢}{希哲13年3月27日}{てへぺろ}{希哲13年3月27日のツイスト}{ツイスト}{若者}{老人}{世代}(8)

{あれ K#F85E/5B28-4F1B}

というより,30代から60代までが一番責任を問われる世代なので,若者か老人とみなされる年齢で挑戦するのが得といえば得だ。てへぺろ世代というか……。

{社会}{社会}{時事・入知}{鳴中}{若者論}{若者}{日本}{子供}{メディア}{時記}(11)

{子供を利用する鳴中(メディア)たち K#F85E/2765}

このごろ,<ruby><rb>鳴中</rb><rp>(</rp><rt>メディア</rt><rp>)</rp></ruby>に「若者」という言葉が溢れているのが気になる。

ネットで容易に発言の機会を得られるようになったこともあるだろうが,特に,社会に対する主張を持っている子供というのは珍しさもあって注目されることが多い。だから鳴中も群がって彼らをネタにしようとするのだが,やはりそこは自制心が必要だ。

一人で社会に訴えかける力を持っていない若者が,<ruby><rb>大衆鳴中</rb><rp>(</rp><rt>マス メディア</rt><rp>)</rp></ruby>等に出て何らかの主張を行なっているということは,当然,それなりの地位にある大人たちの手を借りていることになる。そういった若者たちは,彼らを支持する大人たちを代表しているのであって「若者の代表」では決してない。そもそも「若者の代表」という言葉自体,オヤジたちの願望と厚かましさの象徴のようで,若者の感性を全く感じさせない。

だから,彼ら「若者」の主張は普通の大人たちと同様,真剣に検討・批判される対象でなくてはならない。そうでなければ,大人たちは自分に都合の良い「若者」を使って間接的な主張を行い,「若者」を盾に批判を回避できることになってしまう。悲しいかな,そういう卑劣な手段がまかり通ってしまっているのが日本の鳴中の現実だ。そこに良心がない方がまだマシかもしれない。どちらかといえば,それを見抜く知性に欠けていることこそ社会の重病という気がする。

本当に若者の声を聞きたいなら,足を使って,様々な立場の若者から平等に話を聞くのが当たり前だが,現実には,そこまでする鳴中の方が奇特だ。多くの鳴中は,都合の良い主張をしてくれる若者を「若者の代表」と祭り上げて,彼らを手頃な商品にしてしまう。志の低さに他人ごとながら情けなくなってくるが,こういう連中が多すぎる。

ときどき,年端もいかない若者が手厳しい批判にあって,精神的に傷つくこともある。その時に,「若者に厳しい」と責められがちなのは批判者だが,実はもっとも責任が重いのは若者を矢面に立たせた人々だ。連中は,若者,特に子供が責められにくいということを承知の上で利用しているが,それを知っている人間はむしろ心を鬼にして批判しようとする。もちろん行き過ぎて中傷になればやった方に非があるが,正当な批判は「子供を利用するな」という,背後の大人たちへの痛烈な批判なのだ。

戦争では,少年が兵士として使われることがある。この場合,非難されるのは完全に使用した側だ。国際法でも少年兵の使用を禁じることは多いが,敵の少年兵を攻撃するなとは言われない。少年であることを戦場で特権に出来るのであれば,少年そのものが戦闘員の域を超えて「特殊兵器」になってしまうからだ。生々しい戦いの現場ではこれが自明のことだ。だから,葛藤があっても大人は少年に向けて引き金を引く。重要性において決して戦争に劣るものではない言論の場でも,これとよく似た構図で子供が利用されているが,ここまで想像力を働かせる者はまだ少ない。

私は,こういった観点からその手の「若者」をまず好意的には取り上げない。日本の鳴中関係者も,卑しい手段に頼らず,もう少し志を高くもって仕事をしてほしいと思う。

{若者}

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