国家についての描線。
語源
「国」は古来から、ある程度独立した地域・政体を指す。
英語では概ね,「country」(contrata terra = 反対の土地)を地理的な国土,「nation」(natalis = 出生)を国土と住民,state(status = 地位,支配権)を統治権,と理解する事が出来る。
「republic」(共和国)が「国家」と訳される事もある(プラトン等)。
激化する SNS 戦国時代の中で,サービス文化について考えさせられることが多い。今日はちょっと面白い発見もあった。
以前にも SNS におけるオタク文化について考えたことがあるが(3月1日の日記),依然としてその影響力は強いと感じる。例えば,Misskey の猫耳機能などは私の価値観からすると完全にありえないものだが,そういう部分があることでオタク層からの信頼を得ている面はあるだろう。誰かにとっての「居心地の良さ」を提供することは SNS の核心であって,Misskey はまだ小規模ながら興味深い事例ではある。
最近でいえば,Threads の急速な台頭によって,キラキラした Instagram 的な場に対する「ドブ川」としての Twitter に,想像以上に多くの Twitter 用者が想像以上に強い愛着を持っていることが分かってきた。「陽キャ」に対する「陰キャ」のコミュニティであるという意識もやはり根強いようだ。それは単なる自虐というより,昔から言う「明るい人気者ほどつまらない」とか「面白い奴には根暗が多い」とか,その種の含みがある。
確かに,自分が好きだったお笑い芸人なんかを振り返ってみても,根暗でひねくれていた人ばかりだ。そういう人が,業界で一定の地位を築いて妙に社交的な「明るい人」になったりして,つまらないことで笑うようになり,かつての面白さを失っていく,という哀しい現象もよく見てきた。
明るい人というのは箸が転んでもおかしいという人なので,日常にそこまでひねりの効いた刺激は求めていないのだ。Twitter 用者が Instagram 的な SNS に感じるつまらなさとは,こういうことなのだと思う。
幼稚なデマに煽られやすいなど,全体としては知的脆弱さが目立つ Twitter ではあるが,役立つ投稿や面白い投稿が比較的多いことは認めざるをえない。学問も文芸も,多少ひねくれていたり,オタク気質だったりするくらいが丁度良いからだろう。その点で,Twitter 文化にはマイクロブログ型 SNS における確かな優位性がある。
そういう観点からデライト文化について考えてみたら,対 Twitter 戦略なんて無理筋じゃないかと一瞬思いかけた。というのも,デライト文化の種子たる私自身が,人間の限りない可能性と限りない成功に対して限りなく楽天的な性格であって,その実現のためにデライトを開発してきたからだ。サービス名を〈delight〉(歓喜)にかけているくらいなので,そもそもデライトはこの上なく明るい気分から生まれている。そういう意味では,インスタグラマーも真っ青なキラキラ志向なのだ。
単純な話,Twitter が陰キャ寄り,オタク寄りの SNS だとして,デライトがそうでないとすると,どうやって用者を移行させるのかという問題がある。ここまでのデライト運営の実感としても,Twitter をはじめとするマイクロブログ型 SNS からの訪問者は,明らかにデライト文化に引いている。
先日の一日一文「日本はどう逆転するか」では,あまりにも長くなり過ぎたため最後の見出しを削った。なかなか理解しにくいであろう私自身の政治思想についての余談だ。
面白いことに,私は昔から「極右」の類ではないかと誤解されることが,どちらかというと多い。これは先の文章のように,日本を極大国にしようなどとずっと言ってきたからだろう。
しかし,そんなことを一人で勝手に語っているのだから,私自身は個人主義者以外の何者でもない。私がイメージする国家というのは,昔のヒップホッパーが肩に担いでいた巨大ラジカセみたいなものだ。国家に従属したり逃避したりする「小さな個人主義」ではなく,国家を担いで鼻歌交じりに世界を歩いてしまうような個人主義を「大きな個人主義」と私は呼ぶ。
私が日本という国家を重視しているのは,それが世界を変える有効な手段だと感じているからだ。
日本で知識産業革命を起こし,日本が極大国になれば,かつてのイギリスがそうであったように,世界中の国々にその技術や文化を伝えることが出来る。実際,平成バブル期までの日本は,世界の経営学に大きな影響を与え,「日本に学べ」という風潮を作った。
「成功」さえすれば,世界の注目を集めることが出来,世界の変革を主導することが出来る。希哲館事業におけるジパング計画は,その最初の段階というわけだ。
希哲館の目的は,まず「希哲日本」という成功模体を創り上げ,その後は国際連合に代わる国際機関として「希哲」の理念に基く新国際秩序を形成することにある。知性と反知性の分断を乗り越え,万人が知による繁栄と平和を共有出来る世界だ。
私は一人で「希哲紀元」という独自の紀年法を使っているが,これはキリスト教の西暦でもなく,天皇の元号でもないという,端的な独立表明でもある。中立性のために必要であれば,平和的・合法的にバチカン市国のような小さな独立国家を持つ計画まで準備している。
一昨日の一日一文で私の変わった“金銭欲”ついて少し触れたが,これが実は希哲館事業の核心に近い要素かもしれない。
希哲館事業にはもともと,“資本主義と共産主義の綜合”という目標が含まれている。その新しい経済思想を「相通主義」と呼んでいた。この名前も最後に見直したのがだいぶ前なので,もう少し良い名前がある気もするが,しばらく仮称としておこう。
相通主義というのは,資本主義の流儀に則って共産主義の理想を(本来の共産主義とは別の形で)実現してしまおうという考え方だ。その鍵になるのが「相通化技術」と呼ぶ技術で,情報技術と交通技術に大別される。希哲館事業では,その情報技術を「虎哲」,交通技術を「竜力」と呼び,開発計画を「竜虎計画」と呼んでいた。
その虎哲の核心となるのが輪郭法で,デルン,デライトとなっていく。こう階層的に整理してみると,希哲館事業構想がいかに巨大か分かる。「人類史上最大の事業構想」というのも伊達ではない。事業の全体像を簡単に説明しておこうと思うだけで,本題について忘れそうになる。
そんな希哲館事業で私がやりたいことは,簡単に言ってしまえば,“世界史上最大の企業”を作って雇用を万人に開放することだ。これを「基礎雇用保障」(BW)と呼んでいる。「基礎所得保障」(BI)の代替策だ。
BI は昔から考えられてきたことだが,小規模な実験以外で実現の見通しは立っていない。いくつかの理由で,一定規模以上の国家で実現することは困難と私は見ている。
BI は社会の構成員に大きな考え方の転換を迫る。それも,持続的でなければ意味がない。やってみたが,やっぱり戻そう,という動きも当然考えておかなければならない。その割に,哲学的な弱さがある。利点とされていることも大半は希望的観測でしかない。
それに対し,BW は思想転換も政治的合意も必要としないという大きな利点を持つ。その代わり,万人に雇用を提供出来る企業を創り出さなければならない。
私はよく GAFAM を意識したようなことを語っているが,実際,この構想は GAFAM を大きく越えるような企業でなければ実現出来ない。しかし,それは不可能なことではない。
知識産業はこれまで考えられなかったような格差を生み出す。企業間も例外ではない。ついこの間まで,GAFAM の株価が東証一部上場企業全体を上回り,米国政府と対立することなど考えられなかった。その GAFAM 全体を一社で上回る企業が出てこないとも言えない。
究極の格差を制することで世界に平等をもたらす。この BW という考え方は,世界史上最大の富を生み出そうという意欲と,人並の収入があれば満足に暮らしていけるという価値観を両立させた人間にしか生み出せないものだと思う。