明日で今月の雑務が上手く片付きそうだ。夜から28日まではデライト開発に専念出来るだろう。

{希哲15年2月24日の日記 K#F85E/A-E74C-E1A7}

{希哲15年2月15日の日記 K#F85E/A-E74C-2AF1}

{希哲15年2月7日の日記 K#F85E/A-E74C-09EB}
デライト開発の快調は続き,念願の自我アイコン設定機能実装も一段落した。想定よりずっと早くそれなりの形になったのは嬉しい。
これで今月予定していた大きな作業は文書整備のみとなった。当努自体は他にも色々あるが,現時点で優先順位を付けるのが難しい。文書整備が終わった時点で第三次宣伝攻勢に入り,不具合修正,最適化,領当て調整など細かい作業をしながら反応を見て次の当努を決めたい。
手定め用のつもりだった自分のアイコンにも大分慣れ,愛着すらわいてきた。
思い付きで咄嗟に作って Mastodon で使い始めたこのアイコンだが,流石にデライト最初の顔にするには雑過ぎると感じていた。とはいえ,わざわざ綺麗に撮り直すのも気恥ずかしいので惰性で使い続けていた。

{希哲15年2月6日の日記 K#F85E/A-E74C-2C52}

{希哲15年2月5日の日記 K#F85E/A-E74C-ECED}
引き続きデライト開発は快調・高進捗で,むしろ過熱感すらあった。
良い指標上の変化もあり,これまでになくデライト収益化に現実感が増してきた。
4月1日までのデライト収益化達成に向け,1ヶ月程度の短期集中生活に入ることも想定し始めた。せっかく第三次生活習慣改善を始めたばかりなので,相応の確信が出来るまでは待つ。

{希哲15年2月3日の日記 K#F85E/A-E74C-E2A7}
昨日,閃きについて考えたことで論理共感覚や論理実装主義についての考え事もあったものの,立ち上がりにしては良い調子だった。
手定めで初めて自分のアイコンを使ってみた。新鮮で面白かった。KNS としてのイメージがより明確になり,持ち辺が上がった。
少し眼精疲労と全身の凝りを感じていたが,しっかり小休憩時間を取り,蒸しタオルで目を温めるとみるみる改善した。昨年10月頃から生活律動が乱れ進捗時限法も適当になっていたせいだろう。

{希哲15年2月3日8歩 K#F85E/A-E74C-4575}

{希哲15年1月31日の日記 K#F85E/A-E74C-7DC2}
2月中旬までに新生デライトの体裁を整え,遅くとも3月1日までには第三次宣伝攻勢を始めることにした。
今月中にやりたかった作業に加え,必要を感じていた最適化も進めたい。
この日は珍しく,朝から一日中妙な疲労感があった。やはり描出思考による脳過熱が疑わしい。
思う存分,身体の限界まで考えるべきことは考えられたと思えば清々しい。2月からはまた新しい気持ちでデライト開発に打ち込みたい。

{思想について K#F85E/A-E74C-9878}
最後に,ご指摘の「思想臭さ」や「難解さ」についてですが,これも造語と同じで,今となっては必要悪に近いなという感覚です。
昨年半ばに知って頂いたということでお気付きか分かりませんが,デライトは当初,出来るだけ無難な宣伝を心がけていました。ちょっと風変りな気軽に使えるメモサービスに必死に見せかけようとしていたのです。結果として表面的な反応は悪くなかったのですが,ユーザーの定着には全くつながりませんでした。
こういう経験から,少しずつデライトは難解さも含めてありのままを重視する戦略にシフトしていきます。見せかけの分かりやすさで気を引くより,時間がかかっても理解あるユーザーを増やしていくことの方が長い目でみれば得策だろうという考えです。
そもそも,思想臭や政治臭を感じさせないサービスって,波風を立てていないから気付かないだけで,よ〜く考えると気持ち悪いものだなと思います。世界や社会について何も考えていないか,都合が悪くて隠しているということですから,突き詰めれば信頼性・透明性に関わる問題に他なりません。
GAFA 等が社会的責任を厳しく問われる立場になってはじめてそれが露呈したと思います。便利な技術を作ったらそれがどんどん社会的影響力を持ってしまったけど,その後は知らん,で済まされる時代はもうすぐ終わるでしょう。思想や政治観の無いサービスはもう古い,という時代はすぐそこだと思っています。
デライトは,この技術でどのように世界を変えるのか,政治はどう変わらなければならないのか,考え抜いたことを全て開けっ広げにします。それこそ透明性であり,それで離れていく人がいるとすれば,その人に対する誠実さでもあると思います。あとはその思想がどこまで普遍性を持てるかの勝負になるでしょう。
何より,思想臭さは人間らしさです。もし私が目先の利益を貪るだけの動物なら,万に一つも成功の可能性はないと思っていたデライト開発に18年もかけなかったでしょうし,何があろうとこれからの人生の全てを捧げようとも思わないでしょう。これは思想を持てる人間だけが出来ることです。
