希哲12年1月13日,旧現代思想に対する希求主義を表現する用語として定義。
萌芽は閃きの希哲前4年(2002年),確立は希哲館創立の希哲元年(2007年)。
朝の一日一文でなんとなく凡人思想について書き始め(「超人を越えた凡人への旅」),久しぶりに希求主義についてまともに考えた。
旧現代思想と新現代思想たる希求主義の分水嶺は「可能性」だ。輪郭法の閃きが現代相対主義を克服した。
そこからデライトまでを通観してみると,“デライトの成功”がこれまでよりずっと重く感じられる。技術史のみならず思想史にとっても大画期だ。十分現実的だという考えは変わらないが,あまりにも大きな現実で,急にふわふわした気分になってくる。
そんなことを考え過ぎたせいか,午後に入ってから強い眠気に襲われ,開発作業はいまいち捗らなかった。
ちょうど先週は水曜日に休日を取っているので,ここで半休を入れておくことにした。明日も午前の様子次第で半休にするかもしれない。
ついでにこの半休を生活律動調整に利用し,今日から21時就床・5時30分起床を始めることにした。
22時就床にはだいぶ慣れたが,第四次宣伝攻勢の朝のデライト宣伝を考えると,6時には活動を始められるようにしたかった。少しずつ就床時間を早めようとしたものの,一進一退という感じで埒が明かなかった。
SNS の誹謗中傷で18歳の女の子が自殺したというドキュメンタリー番組をたまたま観てしまったのも,ぼんやりしてしまった原因かもしれない。
近年よく聞く話題ではあるが,従兄弟にもそのくらいの年齢の女の子がいて,2人の姪も出来たばかりで,余計生々しく想像してしまい少し気分が暗くなった。
希哲館事業を一つの新しい「文明」として私が認識し始めたのはいつだったか。デルンの実用化を果す希哲6(2012)年頃には「内なる文明」とか「腫物文明」とか言っていた記憶があるので,デルンという“文明の利器”の存在は大きかったのだろう。
新現代思想を構築し,希哲紀元を作り,大和民族から「希哲民族」をスピンオフさせたりまでした。実際,ここまで独自性を高めると「希哲文明」としか言いようがない。
ここまでのことをして自作文明や自作民族を持っている人間は世界中見渡しても他にはいないだろう。そんな希哲館事業でなければ,「イデオロギー定食」という発想も無かったはずだ。
(途中で何が書きたかったのか忘れたのでこの文章は『道草録』に入れないが,消すのも惜しいので残しておく)
宇田川が17歳の時に体験した爆発的な着想。最初の脳爆発。きっかけは射雨だった。流動の性質に関する観察から。
後に輪郭法と呼ぶ理論はここで生まれ,希哲館事業の核となっていく。
「悟り」や「開眼」など,仏教用語を借用することが多かったが,語弊もあるため希哲11年3月10日から「閃き」と表現することにした。