{}{一日一文}{サービス}{KNS}{デライト}{SNS}{希哲16年4月の一日一文}{一足飛び}{万人による万人のための知性主義}{世界史上最大の課題}(138)

{SNS の限界と言論の自由 K#F85E/E74C-37F2}

Twitter 買収騒動で,SNS における“言論の自由”についての議論再燃している。

相変わらず誰もが SNS 上の規制について考えているわけだが,そこに誰もが納得出来る結論はなく,水掛け論域を出ていない。これからもその域を出ることはないのだろう。表現の自由言論の自由についての議論は今に始まったことではない。

私自身の考え昔から一貫している。SNS における表現の自由問題視されるのは, 発信の質に対して発信力強過ぎるからだ。それが中傷ヘイトスピーチデマといった問題になっていくわけだ。SNS構造的限界なのだから,その構造変えてしまうしかない。

KNSknowledge networking service標榜するデライトは,世界で初めて理論的かつ具体的SNS構造改革提案をしているサービスだ。

見ての通りデライトTwitter のようなマイクロブログ近い感覚利用することが出来る。では何が違うのかというと,知識を蓄積する機能持っていることだ。デライトは,個人よりよく世界について知るためのメモ機能と,それを基礎とした交流機能提供している。これがつまり KNS だ。まだ小規模ながら,実際に新しい知的交流生まれている

これが意味することは,世界を揺るがすほど大きい

世界史的に見ればSNS というのは衆愚政治陥った古代民主主義再現だ。民衆発言権強くなると,民衆煽動しようとする政治家現れる。彼らは「デマゴーグ」と呼ばれ,その煽動行為は「デマゴギー」と呼ばれるいわゆるデマ」はこれに由来する

デマゴーグ達によって混迷陥った古代社会批判するように,ソクラテスプラトンといった哲学者達が現れ西洋思想源流となっていった。こうした経緯から西洋思想にはエリート主義伝統根強くあり,大衆による直接民主主義軽視されてきた。それから紆余曲折あって,エリート大衆折り合いを付けた間接民主主義定着し今にいたる。

エリート任せでも大衆任せでも社会上手く行かない人類長い勉強到達したこの秩序を,技術破壊し古代逆戻りさせたのが SNS だ。SNS人々煽動して支持層固めれば,一足飛び権力得ることが出来てしまうわけだ。

だからといって今更エリート主義には戻れないだろう。大衆愚かなのが悪いというなら,大衆が「皆で賢くなる」しかない。KNS は,そんな不可能そうなことを可能にする唯一の道具だ。「万人による万人のための知性主義」という,世界史上最大の課題に対する真正面からの解答なのだ。


{開発}{メモサービス}{万が一}{一か八か}{究極}{}{政府}{英語}{未来}{日本語}(570)

{日本はどう逆転するか K#F85E/E74C-3C71}

昨日の一日一文では高度経済成長期以後の日本の盛衰について分析してみたが,今日は,そんな日本がどうやって中国抜き返し,アメリカをも凌ぐ世界史上最大の極大国ハイパーパワーとなりうるのかについて書いてみよう。

アメリカ脱工業化成功繁栄を極め日本工業しがみつ凋落した……物語はここで終わったわけではない。ジパング計画という“新しい物語”が始まるのはここからだ。

あての無い家出

私は,これまでの世界で起きた脱工業化という現象を「あての無い家出」と表現したことがある。とりあえず工業中心から脱してはみたものの,落ち着ける先が見えていないからだ。脱工業化は世界にとって時期尚早だったかもしれない,という雰囲気は実際に広がりつつある。

それを象徴するような二つの出来事が同じ2016年に起きた。イギリスにおけるブレグジット決定,アメリカ大統領選挙におけるドナルド・トランプ当選だ。私はこれらに象徴される英米政治混迷を「英米政治危機」と呼んできた。

そしてその背景にあったのが,情技(IT)産業をはじめとする知識産業隆盛に伴う工業の衰退格差拡大国民分断だった。世界経済と脱工業化の先頭を走っていたアメリカ,そのアメリカを生み出したかつての超大国であるイギリスが同時に似たような危機に陥ったことは偶然ではないだろう。

産業革命から近現代牽引してきた両国の産業構造はもちろん,政治文化にも通底する何かの限界が,ここに来て露呈したのだ。

トランプ政権下のアメリカでは,まさに脱工業化の煽りを受けたラスト・ベルトに支持され“再工業化”の動きすら見られた。それは,あてのない家出から“出戻り”してきた少年少女のような,心細いアメリカの姿だった。

近代と工業,そして新近代化

一般に,国民国家間接民主主義資本主義といった現代社会標準的体制形作られた18世紀頃から20世紀頃までの時代を「近代」という。

読み込み中...
{黄金状態}{一日一文}{デライト}{19世紀}{17歳}{16歳}{20世紀}{希哲15年6月の一日一文}{高度非言語思考}{閃きの文化}(81)

{仏教とデライト K#F85E/E74C-8C25}

日本仏教大国だが,その日本で生まれたデライトにも,仏教の影響かと思うことがいくつかある。

もともと,私自身が子供の頃から仏教的な考え方をしていた。小学生の頃,何も考えていなさそうな微生物が,自分で作り出した悩みにとらわれている人間よりも「賢い生き物だと思っていた。特に仏教の教えを知っていたわけではないが,「縁起」のようなことも独自に考えている子供だった。

私はしばしば,17歳デライト基礎理論でもある輪郭法を思いついたことを「閃き」と呼んでいるが,これ自体,「高度非言語思考」と呼ぶ独特な思考法によって得たものだ。つまり,「言語にとらわれず思考すること」を独自に追求していたわけだ。これが仏教的かどうかはさておき,明らかに西洋思想的ではない。

語りと悟り

私は西洋思想を「語りの文化」,東洋思想を「悟りの文化」と表現することがある。

言語的であるということは,順序的であり一面的であるということだ。言葉は順番に並べることしか出来ないが,それゆえに階層的秩序と相性が良い。西洋思想における「ロゴス中心主義」というやつだ。

しかし,当然ながら世界平面ではなく,決まった順序で捉えられないことが数多くある。東洋思想は大昔から仏教を含めた「悟りの文化」を発達させ,この世界非言語的に捉えようとしてきた。

19世紀頃から,「西洋人」達は西洋思想限界東洋思想可能性に気付き始めた。先日の一日一文で触れたニーチェ仏教傾倒していたことが知られている。20世紀以後の思想は,多かれ少なかれ東洋思想の影響下にある。

悟りと閃き

さて,デライト出発点となった「閃き」だが,実は,もともと「悟り」と呼んでいた。後に語弊があるとして改めたが,それほどの神秘的体験だった。

実際,この閃きから出来あがったデライトは,あらゆる情報が固有の名前を持たずに垣根なく連環し,立体階層構造を成すようになっている。これは私が16歳頃から実践していた高度非言語思考具現化したものでもある。

一昨日の一日一文で書いた「黄金状態」というのも,実質的に悟りの境地みたいなものかもしれない,と思うことがある。デライトによって誰でも体験出来るなら,これに勝る用者ユーザー体験は無いだろう。

もしかしたら,デライトを「触れる仏性」として「カジュアル悟り」を広めることが出来るかもしれない。不謹慎なようだが,必ずしも小難しい理論や厳しい修業によらず,時代に合わせて大衆化軽常カジュアルしてきたのが仏教の歴史だ。

メカソクラテスでもありメカブッダになるかもしれないデライトは,悟りの文化語りの文化統合した「閃きの文化」と言えるかもしれない。

{東西思想}{余談}{悟性}{理性}{統合}{壮大}{設計思想}{テーマ}{開発者}{デライト}(14)
{統治}{エリート}{批判}{衆愚政治}{古典}{フィロソフィー}{希哲}{プラトン}{日本}{西洋思想}(10)
{希哲14年5月12日のツイスト}{希哲14年5月12日}{社会}{語りの文化}{悟りの文化}{ツイスト}{多様化}{発展}{延長線上}{役割}(15)
{文化的背景}{希哲14年2月8日}{希哲14年2月8日のツイスト}{語りの文化}{ツイスト}{交流}{西洋思想}{論理}(8)
{希哲14年2月8日}{希哲14年2月8日のツイスト}{ツイスト}{シーケンシャル}{文脈}{西洋思想}{多様性}{言語}(8)
{西洋思想}

{}