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{希哲15年9月26日の日記 K#F85E/E74C-534A}

今日は1回目新型コロナワクチン接種から出かけ,少しぶらぶら歩いた

時間かの岐路時間んで歩んできたこの9年だが,もし金を選んで,今と同じくらい奇跡的成功し,数百億円やら数千億円やらの金を手にしていたらどうなっていたか,などと考えた

やはり,希哲館事業をここまで持ってくるには,そこから更に10年前後かかるだろう。それも奇跡的に上手く行っての話だ。時機を逃せば,どれだけ金をかけても時間をかけても無理だろう。しかし,今の希哲館事業なら金はどこまでも,どうとでもなる。

どこにも売っていない,誰も持っていない物は時間から生み出すしかない。金は後から付いてくる。この考え正しかった。どれだけ金を積んでも手に入れられないデライトという至宝を,いま私は手にしていて,金の心配まで無くなったのだから。

ってからは作業場周りの大掃除をした。積年垢を落とせたようで清々しく,気持ち良かった

色々な思い入れのある音楽聴きながら,色々な思い入れのある物の埃を取っていると,ここにいたるまでの思い出走馬灯のようにってくる。思わず感極まってしまった。

つくづく恵まれ助けられてきた人生だった。今度こそ自分が助けられるように頑張らなくてはならない,と思えた


注文していたニット帽届いたので入浴後に被ってみた

目立って悪いところもなく,記憶している限り手触り愛用していた物に近いが,やはり何年も使っていたものの代わりとしては多少違和感がある。以前の物も最初はそんな感じだった気もする。使っていれば馴染むのかもしれない。

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{いくつかの岐路 K#F85E/E74C-05DC}

私にも,いくつか人生の岐路というべき場面があった。

私は12歳頃から変わったを歩むことになったので,これも岐路といえばそうかもしれない。ただ,意識的にこの道を選んだわけではないし,その後のことも全く想像出来なかった。なんとなく迷い込んだという感じだ。

分かれ道を前に立ち尽くすような人生の岐路という意味では,やはり17歳の頃を思い出す。「閃き」で輪郭法希哲館事業青写真が出来た頃だ。

希哲館事業に進むべきか,その気持ち押し殺して普通の人生に進むべきか。どちらを選んでも困難は目に見えていた。結局,決心して希哲館事業発足にいたるまで4年ほどかかった。希哲元(2007)のことだ。

次の岐路は,希哲6(2012)デルンの実用化直前のことだった。

当時の私は,何かと恵まれ個人事業主として好条件司組システム開発仕事をもらったりしていた。このまま無難に仕事を続けるか,思い切ってデルン開発注力するか,という岐路だ。

この時は,あまり迷いもなくデルン開発を取った。希哲館事業を始めた時点で,私の目標は,とりあえず世界史上最大の企業を創り知識産業革命実現することだった。それすら最終目標ではない。このまま無難にやっていれば,そこそこの大企業を創るのが関の山だろうと思った。

デルンの実用化成功とともにそれまでの仕事は全て止め,デルン育てることに注力するようになった。それから更に8年ほど経った希哲14(2020),デルンはデライトとして世に出る

そして今年開発が上手く行き,デライトの成功時間の問題という所まで来て,また一つの岐路があった。じっくり時間をかけてデライトを成功に導くか,多少リスクが増してもデライトの成功を急ぐか,という岐路だ。

もちろん,私はデライトの成功を急ぐことにした。デライトの成功は,希哲館事業の成功過程に過ぎない。デライトだけが成功しても意味がなかった。これは「デライトはなぜ成功を急ぐのか」でも書いた通りだ。

結局,私は無難な道を選ぶということが出来なかった。希哲館事業の成功への希望が残るかどうか。17歳の頃から,それだけが私にとっての死活問題だった。どんなに安全だろうとその希望がゼロなら私は生きていられないし,どんなに危険だろうとその希望がわずかにでもあれば生きていける。

今のところは環境のおかげで良い暮らしが出来ているし,見通しも良いが,生き方そのものがとんでもない綱渡りには違いない。そう考えてしまうと,具体的心配もないのに先が思いやられる

{恵まれる}

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