「論理」(ろんり)とは,経験的に正しく思われている思考の規則である。

{非言語思考と論理実装主義 K#F85E/E74C-A114}
昨日の一日一文で「高度非言語思考」という言葉を久しぶりに使ったので,今日はこれについて少し書いてみよう。
人間にとって,言語と思考を切り分けることは難しい。ある程度高度な概念を扱う思考をする時,言語は自然に伴なうものだ。
他方,言語が無ければ思考出来ないのかといえば,そうではないのも明らかだ。言語獲得以前の幼児にも猿にも思考能力はある。こうした,言語を必要としない程度の非言語思考を「原始非言語思考」と私は呼んでいる。
通常は言語によって為されているような高度な概念を扱う非言語思考,これがつまり「高度非言語思考」だ。
私は,デライトの基礎理論である輪郭法と,それを中核とした希哲館事業構想を17歳で閃くが,この時に実践していたのが高度非言語思考だ。
なぜそんなことを始めたのかと言えば,言語の制約を越えたかったからだ。当時の私は,技術以上に哲学に関心がある少年で,様々な思想の対立や現代思想の停滞を乗り越えるには,「言語思考」の速度が遅過ぎると思っていた。
つまり,概念に名前を付けたり,文章的に整理するのではなく,直感に従って,手で組み立てるように思考を組み立て,言語表現については概ね形が出来上がってから後付けすればいい,と考えた。その結果が「閃き」だったわけだ。
デライトの使い方を理解している人なら,この思考法がデライトにそのまま反映されていることに気付くだろう。この頃の私は,まさに「あれ」だけで思考していた。
私にはもともと,「論理共感覚」と呼ぶ不思議な能力があった。論理と視覚・触覚が連動しているような共感覚(異種連動感覚)だ。子供の頃から,論理というものを,目の前にあるモノを目で見て,手で触るように扱えた。つまり,頭で考えるというより,感じるように思考を組み立てることが出来た。
論理共感覚は,高度非言語思考を可能にすると同時に,論組と強く結び付くことになった。ごく直感的に論組を組み立てることが出来たからだ。「論組」という翻訳語自体,プログラムの本質が論理にあるという感覚に基いて造ったものだ。
そして,論組による実装を最良の知の裏付けとする考え方を「論理実装主義」(論理実証主義のもじり)と呼ぶようになった。デライト開発はまさにその実践と言える。
私は,高度非言語思考,論理実装主義から極めて独特な思想体系を構築することになるが,当然ながら一文で書き切れることではないので,折に触れて少しずつ書いていこうと思う。

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