
{新生デライト K#F85E/E74C-B646}
変遷
当初「新デライト市場戦略」と呼んでいた第二次デライト市場戦略以後使うようになった表現。
第二次市場戦略では,多少の機能整備と文書整備はするものの主に「見せ方」を一新したデライトのことだった。第三次市場戦略で,全体的な改良によって理想的な完成度に達したデライトを指すようになった。
希哲14年12月29日,新デライト市場戦略への転換,デライト完全集約といった出来事を経て,それまでの軽常路線の売り込み方を見直し,「知能増幅メモサービス」を前面に出した戦略に転換する。
希哲15年3月,デライト開発快調期から高い完成度を目指すようになる。
7月下旬,急速に要件がまとまり,8月から完成を目指した「新生デライト開発」に入る。

{“知能増幅メモサービス”はなぜいま最も重要なのか K#F85E/E74C-CDB9}
人工知能,仮想通貨・暗号通貨,仮想現実・仮想世界……等々,様々な分野が世界的な注目を集める中,これらを凌ぐ潜在力があるにもかかわらず,まともに語っているのは私だけなのではないか,と思えてしまう分野がある。それが「知能増幅」(IA: intelligence amplification)だ。
知能増幅というのは,文字通り,工学的に人間の知能を増幅させることを指す。古くからある研究分野だが,人工知能などに比べてその話題性は著しく乏しい(参考)。この言葉に「人体改造」に近い響きを感じる人は多いだろう。実際,脳にチップを埋め込む,遺伝子を書き換えるといった人体改造的な研究がこれまでの主流で,まず倫理的課題が大きかった。倫理的課題が大きければ技術的課題を解消するための実験などもしにくく,実用段階にある技術が存在しなかった。デライトが登場するまでは,古典的な SF の域を出ず,語れることも大して無かったわけだ。
先日の「デライトの使い方の考え方」で少し触れたように,デライトは,その知能増幅を誰でも簡単に触れるメモサービスとして実現した「知能増幅メモサービス」であり,「世界初の実用的な知能増幅技術」だ。どのように実現しているかはあの文章でざっと書いたので,今回は,この知能増幅メモサービスの意義について書いてみようと思う。
知能増幅の世紀
私は,ビッグ・テックや GAFAM などと呼ばれる世界最大の企業群(Google, Apple, Facebook, Amazon, Microsoft)が合併して「Microappglezonbook」となり,自分がその経営を思うままに出来たらどうするか,という思考実験をすることがある。答えはいつも変わらない。iPhone も Google 検索も Windows も,世界最大の SNS も世界最大の通販サイトも,何もかも売り払って,知能増幅メモサービスの開発に全てをかける。
最近何かと話題のイーロン・マスク氏と入れ替わったとしても,やることは同じだ。テスラも SpaceX も Twitter も,何もかも売り払って知能増幅メモサービスの開発に全てをかける。ちなみに,氏の事業の一つには,まさに脳にチップを埋め込む系の知能増幅技術を扱う「ニューラリンク」があるものの,やはり,他の事業ほど目立った成果もなく,あまり知られていない。
つまるところ,あらゆる分野の中で,「知能増幅」が群を抜いて大きな可能性を持っていると私は考えている。これを多くの人が理解すれば,21世紀は間違いなく「知能増幅の世紀」になるだろう。世界初の実用的な知能増幅技術であるデライトは,その嚆矢だ。
知識を生み出す技術
長い前置きに似合わず,知能増幅メモサービスがなぜいま最も重要なのかという本題は,拍子抜けするほど単純明快な話だ。知識が最も価値を持つ時代において,最も価値のある知識は「知識を生み出す知識」であり,最も価値のある技術は「知識を生み出す技術」だからだ。まさにそれを研究開発するのが知能増幅という分野だ。そして,知能増幅メモサービスは,最も実現性の高い,実際にデライトが実現している知能増幅技術なのだ。
例えば,人工知能がいかに発達しようと,それを開発し管理し利用していくのはあくまでも人間だ。人間が愚かなまま機械だけが賢くなっても,人間社会にとってのボトルネックは必ず人間の愚かさになる。知能増幅技術は,人間のあらゆる知的活動を最も根源的な部分から持ち上げる技術であると言える。
……と,この単純明快な話を私がしたのは,昨日今日でもなければ一度や二度でもない。昔から,何度端的に語っても,意図するところが伝わった試しがない。どうもピンと来ていないというのか,大体の反応が「なるほど,で?」という感じだ。理屈はなんとなく理解出来ても,それが意味することの大きさを想像出来ていないのだ。その大きさを先に書いた理由だ。
節穴
思えば,この“ピンと来ていない感じ”というのは,「個人知識管理」(PKM: personal knowledge management)として認知されつつある分野に感じるものと似たところがある。その名の通り,個人が自らの知識を効果的に管理することに関してはすでに色々な方法論や技術が集められている。その代表的な手段として「メモ」があり,メモアプリやメモサービスなどと呼ばれるものも盛んに研究・開発されている。
このメモサービスを知能増幅に結び付けたのが「知能増幅メモサービス」というデライトの位置付けだが,これが,私が思っていたより変わった発想だったらしい,とデライトの宣伝を始めてから気付いた。個人知識管理の技術を発展させていけば,それは当然知能増幅に繋がる。この単純な発想が,意外にも共有しにくい。「デライトではこんな新しいことが出来る」と言っても,「なるほど,でも○○で間に合ってるから」という反応を受けることが多かった。そこには,想像していたよりずっと大きな温度差があった。
このあたりの分野をよくよく観察してみると,開発者にせよ愛好家にせよ,そこまで大きなビジョンを持っている人はほとんどいないことが分かる。要は,「生活術」とか「仕事術」とか「ライフハック」の範疇でしかとらえていない。個人知識管理が知能増幅に繋がり,それが世界を変える,なんて大それたことを考えている人間は,全くいないわけではないだろうが異端者だ。
私の立場からは「節穴同然の眼力」としか言えない分野の体たらくだ。「趣味の問題」で済む話でもない。そう思ったとしたら,ここまでの話が理解出来ていないか,想像力があまりにも足りない。ただただ,一人でも多くの人がこの分野の本当の可能性に気付いてくれることを願って,私は叫び続けている。

{デライトの使い方の考え方 K#F85E/E74C-20C0}
デライトには「使い方」というページがあるのだが,これは最初の頃からまともに更新出来ていない。デライト開発もありがたいことに快調で,いちいち更新していられないほど変化が激しかった。このあたりも近日中に刷新するので,もうしばらくお待ち頂きたい。
もっとも,多くのデライト初心者が躓いているのは,細かい操作方法というより,どういう考え方で使っていくものなのか,という所なのではないかと思う。デライトで躓きやすい「使い方の考え方」について,このあたりで少し補足しておきたい。
デライトは風変わりで慣れが必要なものではあるが,特に難解なものではない。開発者の力不足による不親切さは多々あるものの,あくまで誰でも使えるものを目指している。まずは,ちょっとしたゲームのルールを覚えるつもりで読んでもらいたい。
なぜ「輪郭」なのか
デライトは,個人の知識をよりよく育て,生活の様々な場面で役立ててもらうためのサービスだ。それを突き詰めた結果として,互いに入れ子に出来る「輪郭」という単位で情報を扱う仕組みを持っている。
ここでいう「輪郭」というのも,まずはごく普通の言語感覚で理解してもらえればいい。ある物事の全体を取り囲むもの,という意味だ。もっと具体的にイメージしたければ,手で輪っかを作り,目に見える風景の一部分を切り取って見てほしい。写真の構図を考える時などに似たことをよくやるが,その時に手で作っている輪っかは,世界のある部分の輪郭だ。
その輪郭を,自由に“保存”出来たらどうだろうか。輪郭の中にまた輪郭を作ることも出来る。一つの輪郭は,他の無数の輪郭を含むものであると同時に,他の無数の輪郭に含まれるものになる。そのようにして,“世界を捉える”ことは出来ないだろうか。さらに,この考え方をコンピューティングに応用することで,従来の情報管理が抱えていた問題を解決出来るのではないか。ここからデライトの輪郭という仕組みが生まれた。
例えば,ファイルをフォルダ(ディレクトリ)という入れ物で分類管理する仕組みは広く使われているものの,人間が頭の中で扱っているようには情報を扱えない。一つの物事をどこに分類するかは,見方によっていかようにも変わりうるからだ。これは,一つの情報を一つの入れ物に所属させるような「階層構造」一般の問題(こうもり問題)としてよく知られている。
他方,こうした問題を解決するため,より柔軟な「ネットワーク構造」(グラフ構造とも)を利用した仕組みも広く使われている。Wikipedia などで利用されているウィキはその代表例だ。ウィキは,ウェブのハイパーリンクという仕組みを最大限に活かし,縦横無尽にリンクを張り巡らしながら情報を整理出来るように設計されている。しかし,こうした技術も万能ではない。柔軟な分,散漫・乱雑になりがちで,焦点を絞って情報をまとめることには向いていない。
輪郭による「輪郭構造」なら,両方の利点を上手く共存させることが出来る。輪郭はいわば「宙に浮いている輪っか」なので,階層構造を持つフォルダのような入れ物とみなすことも出来るし,輪郭同士の関係はネットワーク構造のように柔軟だ。以前適当に作った雑なものだが,下図を見ればなんとなくは分かるかもしれない。
まとめながらつなげる
一般に,階層構造は少量の情報を明確にまとめることに向き,ネットワーク構造は多量の情報を緩やかにつなげることに向く。
ウィキなどで作られる情報のネットワーク構造は,しばしば,脳の神経細胞群が作る構造に似ていると言われる。情報同士のネットワーク状の結び付き,という大きな括りではその通りだ。しかし,脳はただ漫然とネットワークを広げているわけではない。脳科学・神経科学でも,神経細胞の結び付きには強度差があると考えられている。つまり,脳は優先順位を整理しながら情報をつなげている。「輪郭」を使ってデライトが再現しようとしているのは,この「まとめながらつなげる」脳の機能だ。
進化の観点から考えれば,動物の脳は,環境に合わせて情報を蓄積し,状況に合わせて有用な情報を素早く引き出せるように出来ていなければならない。もちろん生存のためにだ。どれだけたくさん情報を蓄えられても,必要な時に上手く引き出せなければ意味が無いわけだ。大昔から限界が知られている階層構造が,それでも必要とされ続けているのは,情報に優先順位を付けて整理していく,という脳の機能がとらえやすい構造だからだ。
個人知識管理(PKM)の分野でも,ネットワーク構造を活かしたウィキと並んで,階層構造で情報を整理していくアウトライナー(アウトライン プロセッサー)と呼ばれるものがよく使われている。非常に興味深いことに,この二つを抱き合わせたツールが近年のトレンドの一つだ(Roam Research,Obsidian など)。
脳の進化を追うようにツールも進化しているが,デライトが革新的なのは,既存の仕組みを抱き合わせるのではなく,全く新しい一つの仕組みで脳の機能を十分に再現しているからだ。慣れた利用者にとっては,その単純性がこれまでにない直感性につながる。同時に,初心者には分かりにくさの原因となってしまっている。
デライトには「脳のログ」が流れている
デライトは,“人間が触りやすいように”脳の機能を再現することに,どのツールよりも徹底したこだわりを持っている。人の脳は,長い長い進化の過程で無数のテストを通過してきた,情報処理ツールのお手本だ。その脳を使って活動している人間にとって,最も直感的に扱えるのは最も脳に似ているツールだ。そして,保存・検索・共有といった部分での脳の弱点を機械が補えば,これまで不可能だったような高度な知的活動が可能になる。
デライト上に流れている無数の輪郭が,いわば「脳のログ」であることを理解すると,初心者を面食らわせてしまっている部分の多くも理解しやすくなるのではないかと思う。
公開されることもあって,どのような内容をどのくらいの頻度で“描き出し”していいものなのか分からない,というのはデライト初心者が抱きやすい感想だろう。この点においてデライトは,活発なチャットやマイクロブログ(Twitter など)の速さで投稿(輪郭)が流れていくイメージで設計されている。それも,「廃人」達の独り言で埋め尽くされているチャットのような状態を想定している。脳のログならそうなるはずだからだ。
デライト上には,一見意味不明な輪郭も数多くある。脳のログだと考えれば,これもむしろ自然なことだと言える。デライトは,“綺麗に整えたメモ帳”を見せるためのサービスではない。頭の中にある情報を,ありのままに可視化することに意味がある。他人の輪郭を見るということは,他人の頭の中を覗いているようなもので,めまいを覚えるなら正常なのだ。
それでも,ちょっと気になった他人の輪郭から良い刺激が得られることは珍しくない。自分の輪郭を他人の輪郭を絡ませることも出来るので,デライトでは面白い知的交流が日々生まれている。疑似的に再現された脳同士が対話しているわけで,これは疑似的なテレパシーと言えるかもしれない。
新しい順に輪郭が並んでいるのも,もちろん脳のログだからだ。先日の一日一文でも書いたように,デライトは,Twitter のようなマイクロブログにも似ている。そして,マイクロブログはしばしばメモツールとして利用されている。これは,時間軸に沿って記憶を辿るような脳の機能に似ているからだ。
デライトでは,マイクロブログ感覚で思いつくままに輪郭を作り,時にはウィキのように,時にはアウトライナーやマインドマップのように,“まとめながらつなげていく”ことで「脳のログ」を可能にしている。
例えば,釈迦,孔子,ソクラテス,キリスト……あるいはカントでもアインシュタインでも誰でもいいが,後世の人間は文献からあれこれ推測するしかない「偉人」達の記憶が,このような形で残されていたら,と想像してみてほしい。百年後,千年後の人々にとって,「輪郭」は古人について知る何よりの手がかりとなるだろう。あなたにとって偉人以上に大切な人生の記憶をこれほど強く世界に刻み込める道具は他にないのだ。
そして知能増幅へ
工学的に人間の知能を向上させようという研究分野は,古くから「知能増幅」(IA: intelligence amplification)と呼ばれている。今や世界的な流行語である「人工知能」(AI)に比べて,語られることは非常に少ない。脳にチップを埋め込む,遺伝子を書き換えるなど,どの技術にも大きな技術的・倫理的課題があり,実用段階になかったからだ。
デライトは,それを誰でも使えるメモサービスという形で実現している「知能増幅メモサービス」であり,「世界初の実用的な知能増幅技術」だ。今後の一日一文では,この技術の歴史的重要性についても書いていきたい。

{あれK#F85E/E74C-979C}

{第四次宣伝攻勢に向けて K#F85E/E74C-668D}
デライトは,黄金週間初日となる明日29日,4度目の宣伝攻勢(第四次宣伝攻勢)を始める。これを機に,中断していた「一日一文」の日課も再開することにした。
デライトはいま,包括的な改良構想によって「新生デライト」に生まれ変わろうとしている。今回の宣伝攻勢のコンセプトは“新生デライト開発実況”だ。この一日一文も含めて,開発状況や開発者の考えなどについて積極的に発信していきたい。
森を見て木を見る
3度の宣伝攻勢から得た教訓は色々とあるが,4度目の宣伝攻勢を目前にしてつくづく感じていることは,結局,やってみなければ分からない,ということだ。
ソフトウェア開発をやっていると,ここが悪い,あそこが分かりにくいなどといったことばかり考えてしまいがちだ。とりわけデライトは新奇に見える代物なので,開発者も利用者も,“デライトの問題点”について考え込み過ぎる嫌いがある。
問題点を地道に改善していくのは当たり前のことだが,問題点ばかり見ていると,「問題があることが問題」であるかのような錯覚に陥りがちだ。問題のないソフトウェアなど存在しないので,これは「木を見て森を見ず」の罠でもある。広く使われている全てのソフトウェアは,それぞれに問題を抱えながら,それぞれの役割を果たしている。その全体像を見ずに問題の大きさを正しく見ることは出来ない。
そもそも,使いやすい UI,分かりやすい文書……などと全てを兼ね備えた優等生的なソフトウェアが世の中にどれだけあるだろうか。使いにくかろうが分かりにくかろうが,バグだらけであろうが,“使う必要”があれば使われる。それが現実だ。ツールも文書も,必要ならユーザーが作り始める。昔からそうやってソフトウェアは共有されてきた。
そこに革新性があればなおのことだ。誰でも戸惑いなく使える革新的なソフトウェア──そんなものは夢の中にしか存在しない。デライトがそうであれば,私はとっくに世界一の有名人にして世界一の大富豪になっている。冷静に考えれば馬鹿馬鹿しい話だが,知らず知らずのうちにそれに等しいことを考えてしまうのが認知バイアスの怖さだ。
最大の課題
デライトを普及させる上で最大の課題,換言すれば,最も手っ取り早い道筋は何かといえば,デライトが目指していることを理解してもらい,共感してもらい,必要としてもらうことに他ならない。またこういう文章を書き始めた理由だ。
デライトは,よくあるメモサービスに出来るだけ近付けた知能増幅(IA)サービス,名付けて「知能増幅メモサービス」だ。一時期,「最も使いやすいメモサービスを目指す最も使いやすい知能増幅サービス」と表現していたこともあるが,研究室臭いものになりがちなこの種のソフトウェアとしてはすでに驚くほど簡易的で,その点の達成度は決して低くないはずだ。
とはいえ,全く新しい領域を目指している以上,新しいやり方を理解して慣れてもらうしかない部分はどう頑張っても残る。デライト初心者が戸惑いがちなところは,デライトの目的のためにあえてそうしていることが多い。多くの人にとっての分かりやすさだけを基準にして最終的に出来るのは,微妙に使いにくい,よくあるメモサービスだ。レーシングカーの難しさだけを問題視してオモチャの車にするわけにはいかない。
2年ほど前に公開してから,デライトにはそれなりに多くの人が来てくれた。例に漏れず,大半の人は黙って去り,一部の人はサービスの問題点を指摘して去っていった。私が開発者として一番痛切に感じていたことは,そうした問題点を大きく感じさせるほどの利用動機の小ささだった。「ここが使いにくい」などと言い残して去っていった人達が本当に言いたかったことは,「それでもと使うほどの意義を見出せなかった」ということなのだと思う。
事実,デライトの使いにくさや分かりにくさを改善して利用者が増えた試しがない。いま日常的に利用してくれているのは,あらゆる面でいまとは比べ物にならないほどデライトが貧弱だった時期に,どこかで私がデライトについて語っているのを見て,その可能性に興味を抱いてくれた人達だ。
デライトの意義を理解した人にとってデライトの問題は決して大きくない。開発者として,そう確信出来る地点にようやく来られた気がしている。あとは伝え方の問題なのだろう。
結局は運
もう一つ,商売において陥いりがちな罠に,「生存者バイアス」としてよく知られた認知バイアスがある。成功例の背後にある屍の山に,人は気付きにくい。そして,成功や失敗の要因として語られることは,結果論でしかないことが多い。デライトが成功するもしないも,結局は「運」によるところが大きい,ということだ。
例えば,売れっ子の芸能人がみんな親しみやすく万人受けするタイプかといえば,全くそんなことはない。癖が強く,とっつきにくそうな人も多い。彼らは売れたから「それが良い」と言ってもらえるけれども,同じ特徴を持っていても売れずに「だから駄目なんだ」と言われている人がごまんといる。万人受けしそうなタイプならタイプで,売れなければ「無個性でつまらない」などと言われる。その差は,巡り合わせとしか言いようがない。
勝てば官軍ではないが,デライトの“とっつきにくさ”とされていることも,何かのきっかけで話題になってしまえば“面白さ”になりうる。その程度のことでしかないのかもしれない。
「結局は運」というのは投げ遣りなようでいて,実は非常に前向きな覚悟が必要な考え方でもある。粘り強く試行を繰り返していくこと以上に成功を確かなものにする道はない,ということだからだ。奇跡のような偶然も,サイコロを振り直し続ければ必然に近付いていく。
そしてこのデライト自体,すでにソフトウェア開発における奇跡的な生存例だ。ソフトウェア開発の世界では,デライトよりずっと低い目標を掲げていても,成功どころか動く物すら出来ずに頓挫していくプロジェクトがごまんとある。その中にあって,これだけの大風呂敷を広げ,この品質で実装・運用され,少ないながらも利用者がいて,ちょっとした収益化まで出来ている。こんなサービスは世界を見渡しても他にない。
そんな奇跡がなぜ起きているのか。それはやはり,「粘り続けたから」としか科学的な説明のしようがない。デライト自体は公開から2年を越えたばかりのサービスだが,研究期間を含めると20年近い歴史がある。その全てが無駄なくデライトに結実している。
運を味方に付け,デライトの成功という奇跡を起こすために,ひたすら粘り続ける。これを新生デライトの完成に向けた宣伝攻勢の所信表明としたい。

{第二次デライト市場戦略 K#F85E/E74C-E85A}
希哲14年12月22日,「旧デライト市場戦略」(第一次デライト市場戦略)から「新デライト市場戦略」として移行。
「知能増幅メモサービス」というデライト本来の位置付けをありのままに表現していくことにした。
しかし,「最も使いやすいメモサービスを目指す最も使いやすい知能増幅サービス」という表現にみられるように,メモサービスとしての品質の低さを知能増幅サービスの印迫で補うというものだった。
デライト開発が快調期に入った希哲15年3月,メモサービスとしての品質を伴う第三次デライト市場戦略に移行。

{希哲15年9月1日の日記 K#F85E/E74C-7706}
実装作業もそれなりに捗ったが,頭の整理もだいぶ進んだ一日だった。幸先が良い。
組計整理が進み,当面の組計の見通しはさらに改善,気持ちにも落ち着きが出てきた。
デライト市場戦略にも大きな進展が見られ,より一貫性が高まった。
なんとなく対 Facebook 戦略について考えていると,用者数30億人に迫る Facebook に勝つのに50億人や100億人を目指すのはあまり賢くないな,という思いが沸き起こってきた。
大きな風船(量的大国)には小さな弾丸(質的大国)をぶつけるしかない,というのはジパング計画で考えてきたことだが,デライトに関しては,量より質という考え方を徹底出来ず,まだ爆発的流行による成功という可能性を捨て切れずにいた。
超高効率経営があり,安定拡大戦略があり,書き手・読み手の能力に大きく依存する文字献典を重視し,日本と日本語を重視し……と,全体として量より質を志向すべき環境は整っていた。現に,いまデライト運営が楽なのは,異常なまでに知的好奇心旺盛でリテラシーの高い日本人用者しか寄り付いていないからだ。国内外から無闇に用者をかき集めていたら,いまごろ破綻している。
輪郭一覧にあるデライト広告も,どちらかといえば一見よりも描き手向けになっている。初期に配置を決めてから何度も再検討はしたが,ほとんど動かしようがなく,結果的にこうなっている。輪郭そのものに対して広告を付けると,単純に描き手・読み手双方にとっての快適性を損うという問題もあるが,扇情的な内容が増えれば増えるほど収益が上がる構造になり,信頼性とモラルの低下を招きかねない。
これだけの条件が揃っていながら,まだ揺らぎがあった。問題は,こんな広告で十分な収益を上げることが可能なのか,確証が掴めていないことだった。これについては先月実証され,最近では,全知検索を使い込んでくれる重用者をいかに増やしていくか,という意識が高まっていた。これが最後のピースだった。
ここからは,デライト市場戦略でも,量より質,広さより深さという考え方を徹底していくことにした。デライトが知能増幅メモサービスとしての完成度を高めていけば,用者は必ず後から付いてくる。日本語圏の限界に達する時には,世界中の人が日本語を学ばざるをえないだろう。

{日本はどう逆転するか K#F85E/E74C-3C71}
昨日の一日一文では高度経済成長期以後の日本の盛衰について分析してみたが,今日は,そんな日本がどうやって中国を抜き返し,アメリカをも凌ぐ世界史上最大の極大国となりうるのかについて書いてみよう。
アメリカは脱工業化に成功し繁栄を極め,日本は工業にしがみつき凋落した……物語はここで終わったわけではない。ジパング計画という“新しい物語”が始まるのはここからだ。
あての無い家出
私は,これまでの世界で起きた脱工業化という現象を「あての無い家出」と表現したことがある。とりあえず工業中心から脱してはみたものの,落ち着ける先が見えていないからだ。脱工業化は世界にとって時期尚早だったかもしれない,という雰囲気は実際に広がりつつある。
それを象徴するような二つの出来事が同じ2016年に起きた。イギリスにおけるブレグジット決定,アメリカ大統領選挙におけるドナルド・トランプ当選だ。私はこれらに象徴される英米政治の混迷を「英米政治危機」と呼んできた。
そしてその背景にあったのが,情技(IT)産業をはじめとする知識産業の隆盛に伴う工業の衰退,格差拡大,国民分断だった。世界経済と脱工業化の先頭を走っていたアメリカ,そのアメリカを生み出したかつての超大国であるイギリスが同時に似たような危機に陥ったことは偶然ではないだろう。
産業革命から近現代を牽引してきた両国の産業構造はもちろん,政治や文化にも通底する何かの限界が,ここに来て露呈したのだ。
トランプ政権下のアメリカでは,まさに脱工業化の煽りを受けたラスト・ベルトに支持され“再工業化”の動きすら見られた。それは,あてのない家出から“出戻り”してきた少年少女のような,心細いアメリカの姿だった。
近代と工業,そして新近代化へ
一般に,国民国家や間接民主主義・資本主義といった現代社会の標準的な体制が形作られた,18世紀頃から20世紀頃までの時代を「近代」という。
そして我々はいま,第二次世界大戦などの大きな画期を経て,様々な揺らぎの中で「現代」にいる。現代がどういう時代だったのかは次の時代になってみなければ分からないが,近代については振り返ってある程度概観することが出来る。
この近代化の推進力となったのはイギリスの産業革命だ。ここから世界の工業化も始まった。工業化も含めて様々な要素が互いに影響を与え,支え合いながら近代社会は形成されてきた。脱工業化でいうところの工業というのは,独立して取ったり付けたり出来るものではない。
特に重要なのは,工業というものが実質的な社会保障として機能していた,という点だ。つまり,額に汗して働けば,誰でもそれなりに豊かな生活も社会参加の実感も手に入れられる,という期待が,近代国家に大衆を繋ぎ止めていたのだ。
いま工業に取って代わろうとしている知識産業には,高度な教育を受けた選り人や高度な技能を持った一握りの人々に富が集中する性質がある。GAFAM に代表的な日本企業が何千と束になっても勝てないように,その他大勢がどう頑張っても埋められない差が出来てしまう。
こうなれば,“置き去りにされた大衆”の少なくない部分が,当然のように民主主義における権利を行使して“反乱”を起こすことになる。まさにそういう現象がトランプ政権だった。
世界史の講義のような話になってしまったが,それだけ脱工業化が持つ歴史的文脈は長く複雑だ。脱工業化は,突き詰めれば「脱近代化」であり,新しい産業を中心に社会全体の仕組みを刷新する新近代の創造,すなわち「新近代化」であるということになる。これに成功した国は一つもない。ならば,先走った国々がつまずいている内に,日本でやってしまおう,というのが私が語っていることだ。
ジパング計画とは,工業時代,引いては近現代からの周到な“家出計画“なのだ。
真のポストモダニズム
脱近代化という考え方そのものは,昔,「ポストモダニズム」などといって思想界で流行したことがあった。これも今思えば“あてのない家出”で,近代をあの手この手で相対化してみせるばかりで,その先を語れる者がいなかった。
結局,先行した思想の限界でもあったのだろうと思う。世界が混迷に陥っていても,達観ぶった“思想家”達は現状追認以上のことが出来なかった。私が現代思想を批判してきた理由だ。
こんなことを言うと,少なからず,何も出来なくて何が悪い,世界のあり方についての言説なんて虚構だ,とイマドキの思想家や現代思想かぶれ達には言われることだろう。
私はこう言い返す。出来なくて悪いこともなければ,出来て悪いこともないだろう。やらなくて悪いこともなければ,やって悪いこともないだろう。では虚構であることの何が悪いのか。新近代の創造,そこまでの虚構なら立派な演待というものではないか。そんな面白いことが目の前にあってやってみない方が「現代風の考え方」という固定観念にとらわれているのだ。あなたがたは,知の不可能性に屈していたに過ぎない,と。
いま世界に必要なのは,新しい知の可能性を示し,この壮大な“演劇”を演じ切ることが出来る人間だ。
なぜ日本なのか
新近代化はいいとして,なぜ日本なのか,というのは先日の一日一文でも主題にしたが,その時は個人的な心情を書くに留めた。私は,日本生まれ日本育ちの日本人だ。まず日本のことを考えるのに理由はいらない。
しかし,世界を見渡し,日本だけではなく世界のためを考えた時,新近代化を起こすのが日本でなければならない理由がある。
まず,日本は現在,「自由民主主義」を標榜する先進国の中で,最も政治的安定性を保っている国だ。それも,落ちたとはいえまだ世界第3位の経済大国としてだ。これは驚くべきことだろう。
自由民主主義というのは,アメリカを筆頭にしたいわゆる「先進国」の体制だ。ざっくり言ってしまえば,かつてのソビエト連邦や今の中国と異なり,経済的にも政治的にも自由を最大化しようとする体制のことだ。冷戦時代は「西側諸国」などとも呼ばれていた。
いま,この自由民主主義は危機に瀕している。“自由な経済活動”が知識産業による脱工業化に赴く一方で,“自由な政治活動”は大衆の反知性主義を煽る政治家を生み出す。この不調和こそ現代政治最大の課題と言っても過言ではない。なぜなら,この問題に対する「独裁」以上の解決手段がまだ知られていないからだ。
言うまでもなく,この問題を反民主的な強権体制で押さえ込み,ハイテク国家として日本を飛び越え,アメリカを猛追しているのが中国だ。中国の一応の成功は,冷戦を乗り越えた“西側”の自信を大きく揺さぶっている。
かつてアメリカと世界を二分していたソビエト連邦が崩壊したのは,結局のところ資本主義と民主主義が相対的に成功していたからだ。「自由でも国は上手く行く」ということが実証され続けていれば,独裁国家はその正当性を緩やかに失っていく。
反対に,「自由は国を分断する」と思われてしまえば,独裁国家は現体制を国民のためだと正当化することが出来る。特に英米政治危機以後,混迷する欧米の政治は独裁国家の権威を高めてしまっている。そればかりか,アメリカのような国にも独裁志向の大統領を生み出してしまった。独裁者は外からも内からもやってくるのだ。
さて,ここで日本に再び目を移してみれば,「旧態依然とした衰退途上国」と評されがちな今の日本が,実は非常な好位置に付けていることが分かる。アメリカが持たない安定と中国が持たない自由を辛うじて保っている国,それが日本だ。
つまり,日本には,分断を伴わない脱工業化,引いては脱近代化,新近代化を実現出来る可能性が残されている。これこそ,「自由民主主義における最後の砦」として私が日本を重視し,ジパング計画を推し進める理由だ。
歴史はそれが可能だと言う
とんでもないことを言っているように聞こえるかもしれない。しかし,驚異的な速度で近代化を成し遂げた明治維新,自由民主主義を志向しながら成長と平等を高い水準で両立させ,「最も成功した社会主義国」などと呼ばれてきた戦後……歴史を振り返れば,日本は,それに近い“とんでもないこと”を実現してきた国でもあるのだ。
日本人がいま仰ぎ見ているアメリカは,元はといえばイギリスの小さな植民地に過ぎなかった。そのイギリスも,大航海時代まではヨーロッパの辺境の島国に過ぎなかった。どこかの国に似ているとは思わないだろうか。実際,イギリスは産業革命まで江戸時代の日本と比べてもそう大きな国ではなかった。英語は,そんな彼らが世界中に広めた,彼らの母語なのだ。
そもそもヨーロッパ自体,近代化と世界進出に成功したから世界史の中心にいるような気がするだけで,それ以前の世界経済の重心は中国やインドをはじめとするアジアにあった。
「ルネサンスの三大発明」とされる火薬・羅針盤・活版印刷術の起源が全て古代中国にあり,仏教など古代インドの思想が19世紀以後の西洋思想に大きな影響を与えたように,文化的にも決して遅れていたわけではない。中国もインドも「新興国」などと不名誉な呼ばれ方をしてきたが,本来は「再興国」とでも呼ぶべきなのだろう。
歴史を学んで分かることは,未来は常に創造的であり,決まったことなどないということだ。誰もが想像するように日本がこのまま衰退を続け,英語を学んで出稼ぎに行くのが当たり前の国になるか,それとも,米中を凌ぐ極大国となり,日本語を世界中に広め,名実ともに世界の中心になるか,全ては日本人の創造力次第だ。
一つ,日本人にとってこれまでと大きな違いがあるとすれば,今度は“先生”がいないということだ。誰かの後を追うのではなく,日本人自ら,かつて誰も踏み込んだことのない領域で,先頭を切って走らなければならない。現代政治最大の課題の前に,この日本最大の課題が立ちはだかっている。
日本には何が足りなかったのか
いまの日本は決して悪い状況にあるわけではない。むしろ,「米中凌駕」を狙うには最高の環境にいる。そう見えるか,ただの衰退途上国に見えるかは紙一重だ。一見,今の日本にそこまでの成長力は無さそうだ。知識産業において成長力を生み出す「独創性」が無かったからだ。
この話は,「自分自身についての研究」という題で書いた独自性についての話から繋がっている。あの話を書き始めてすぐ,私の脳裏ではここまでのことが広がっていた。これに収拾を付けるために書いてきたのが一連の文章だ。
独創性というのは,奇を衒って人の注目を集めることではない。その程度のことが得意な日本人はたくさんいる。世界が抱えている課題を,誰も知らなかったやり方,誰も出来なかったやり方で解決することだ。これが日本人には難しかった。
日本人は「一人」がとても苦手だ。常に,似た誰かと一緒に動きたがる。「赤信号みんなで渡れば怖くない」というやつで,みんなと一緒なら大胆にもなれる。人の注目を集めるために変わったことをするのが得意な人も多い。要は「みんなでわいわい」しているのが大好きなのだ。
ところが,独創というのは,文字通りほとんど孤独な作業だ。独創的であるということは,人のたくさんいる街明かりから離れて,一人で真っ暗闇に飛び込み,何か価値あるものを持って帰ってくるようなことだ。死ぬまで誰も認めてくれないかもしれない,誰も理解してくれないかもしれない,道なき道へ歩み出す。これが自分達にとっていかに困難なことかは,日本人自身がよく知っている。
これまでは,外国人が最初にやったことをみんなで真似していればよかった。これからは,日本人自らが未開の領域に踏み出さなければならない。しかし,誰から行くのか。誰もが周りを見て,後から付いていっても安全そうな流れが出来るのを待っている。だから誰も飛び出せない。これが日本の状況だった。「日本最大の課題」と呼んだが,大和民族における数千年来の民族性にまで遡る問題かもしれない。
もちろん,個々人の性格や能力だけの問題ではないだろう。「世界金融危機は日本人の何を変えたのか」でも似たようなことを書いたが,疲弊した今の日本社会には,個人が自由に好きなことを追求出来るゆとりは無いに等しい。かといって,一か八か,打って出るしかないほど追い詰められているわけでもない。ちょうど,“無難が正義”になってしまうような宙ぶらりんな状況にある。
では一体,日本人はどうすればいいのか,と思うだろうか。別に,どうもしなくていいのだ。わざとらしく過去形を強調したが,外国人の後を付いていくばかりの日本人像は,すでに過去のものとなった。希哲館事業が過去のものにしたのだ。
ジパング計画を含む希哲館事業は,私がほとんど自身の体験のみに基いた思想と発明で始めた「世界初の新近代化事業」だ。どのような哲学で,どのような世界を目指し,どう実践していくのか,その全てを,独自に体系化している。規模・密度といい実践の水準といい,このような事業は世界に類を見ない。
そして,私も希哲館事業も日本生まれ日本育ちだ。不思議なことに,私は外国人の先祖を知らない,いわゆる純日本人だ。日本から出たこともほとんどない。
これはつまりどういうことか。日本には,かつてアメリカを脅かすほどの団結力と勤勉さを持った一億の日本人と,アメリカ人にもいないような自由で大胆な日本人が共存しているということだ。
手前味噌もいいところな結論だが,日本には希哲館事業が足りなかった。そして今,日本には希哲館事業がある。鍵はすでに全て揃っているわけだ。あとはそれに気付くか気付かないかの問題だ。
日本人は変わろうとしなくていい
日本人は云々,という巷の日本人論は,やたら欧米人を礼賛して日本人を貶してみたり,そうかと思えば,空想的に日本人を美化してみたり,いずれにせよ現実離れしたものが多い。論者の世界観も分断し,歪んでいるということなのだろう。
「日本はなぜ繁栄し,なぜ衰退したのか」で書いた通り,私は,個人の性格であれ国民性・民族性であれ,全てにおいて良い性格も全てにおいて悪い性格もないと思っている。
日本は,スティーブ・ジョブズのような史上最大級の革新者を生み出せなかったが,ドナルド・トランプのような史上最大級の嫌われ者を生み出すこともなかった。両者は性格においてそう遠くない。良くも悪くも平然と我が道を行ける性格なのだ。
歴史上数々の大冒険を成功させてきた欧米がコロナ禍で夥しい犠牲者を出す一方,日本が行政の迷走にもかかわらず感染拡大を抑えられていたのは,綺麗好きで協調的で慎重な日本人の性格によるところが大きいと言われる。“臆病さ”も場面が変われば“慎重さ”になる良い例だ。
特に日本人のように自尊心が低く自己評価が極端に振れがちな集団にとって重要なことは,自分達の長所・短所,持っているもの・持っていないものを偏りなく正しく知ることだ。外国の一面を真似て変わろうとしなくていいし,いまさら中途半端な外国かぶれになってどうにかなる状況でもない。自分達についてよく知れば,考えることもやることも自ずと良い方に変わってくる。
自分が鬼であることにも,近くに金棒が落ちていることにも気付いていない──私の目には,いまの日本人がそんな鬼のように映っている。自分の力を知り,自分の武器に気付きさえすれば,まさに「鬼に金棒」だというのに。
一選万集の元気玉
さあ,世界と日本がいまどういう状況にあり,日本人はどこをどう目指すべきなのか,外堀を埋めるように語ってきたが,そろそろ本丸の攻め方について具体的に考えてみよう。
結論から言えば,日本が飛躍を目指すのであれば,国全体で,基幹産業へのいわゆる「選択と集中」を徹底せざるをえない。その戦略において最大の問題は,新しい日本の基幹産業として何を選択するかだ。そして,選択すべきは知能増幅(IA)以外にない。
まず,集団としての日本人の特性と人口規模を考えた時,アメリカ型の起業大国を目指すべきというのは経営戦略として下策と言わざるをえない。
アメリカは,日本よりずっと多様な人々が日本の倍を越える人口でいる国だ。多様性はともかく,中国の人口にいたっては日本の十倍を越えている。これに加え彼我の国民性の差を考えれば,鉄砲玉の数で勝負するような起業に向かわせるのは日本人の無駄遣いだ。それで出来るのはせいぜいアメリカもどき,「米中凌駕」など到底叶わない。
日本人はばらけた時よりも固まった時に強い。この日本人の特性をどう活かすかと考えれば,選択と集中に向かわざるをえない。それも,米中を圧倒する極大国を目指すのだから中途半端ではいけない。日本の全てを一点に集中するような,「一選万集」とでも呼ぶべき究極の集中戦略が必要だ。
80年代以後に漫画を読んで育った世代には,「元気玉方式」というのが一番分かりやすいかもしれない。
選択と集中は本質的に「賭け」だ。近年,この戦略を批判的に捉える論調も目立つようになったが,多くの場合はここを誤解しているのではないかと思う。日本人はその賭けが苦手で,保険をかけることに多くの経営資源を費やしてきた。だから冒険をしなくてはいけないと言っている時に,怪我したからやっぱりやめよう,というのでは何も変わらない。
選択と集中における失敗とは,「集中の失敗」ではなく「選択の失敗」だ。失敗したから集中をやめようというのが日本人なら,別のものを選択してまた挑戦してみようというのがアメリカ人なのだ。
当然,「元気玉方式」では全てをかけるのだから,万が一にも外せない。逆に言えば,万が一にも外さないことなら全てをかけてもいいはずだ。いっそのこと,そこまで突き詰めてしまった方が日本人は乗りやすいかもしれない。
何を選択するか
ここまで来れば,問題は一点に絞り込まれる。日本の全てをかけてもいい基幹産業として何を選択するべきかだ。
内閣府のムーンショット型研究開発制度では,人工知能をはじめとする,いまや世界中で猫も杓子も語っているような路線で「破壊的イノベーション」が語られている。残念ながら,すでに米中が桁違いの投資で先行する分野の後追い以上のものにはなっていない。もっとも,民主主義における政府の役割は,みんなの意見を集約することであって,誰も理解出来ないようなことを勝手にやり始めたら独裁だ。それはそれで仕方ない。
これは日本人にとって極めて難しい問題だったが,私は,何の迷いもなく,「知能増幅」(IA: intelligence amplification)だと即答出来る。知識産業にとって最も根源的な役割を持ち,まだ十分に知られていない未開の領域で,日本人である私が「世界初の実用的な知能増幅技術」(デライト)を完全に保有しているからだ。
このような話になると,日本が誇るゲームやアニメ,漫画があるじゃないか,という人も多い。もちろん,これらも素晴らしい日本の文化で,重要な産業ではあるが,基幹産業というには心許無い。
馬鹿にしているわけではない。例えば,日本製のゲーム作品なんて,ほとんど人間業の限界といっていいくらい洗練されていると思う。長年,世界中で人気もある。では,任天堂をはじめ日本のゲーム会社がどれだけの規模に成長しているのかというと,その偉業の割に目を疑うほど小さい。これ以上頑張りようがある気がしないのだ。
これには少し個人的に心当たりもある。私は80年代生まれで,人並みにゲームやアニメ,漫画に囲まれて育ってきた。ただ,大人になってからはこれらの分野にほとんど金を使っていない。時間が無いからだ。それで困るかというと別に困ってもいない。つまり,後回しにされがちな分野だ。
GAFAM(Google,Amazon,Facebook,Apple,Microsoft)というのは,いわば“新しい生活必需品“を作っている企業だ。ゲームが出来なくても私は困らないが,Google 検索や Amazon が使えなくなれば困る。支配力という点ではやはり比較にならない。
「日本にはスティーブ・ジョブズのような起業家がいない」という話になると,例えば,「日本には任天堂の故・岩田聡氏がいるじゃないか」というような反論の仕方をする人がいる。感情としてはよく分かる。岩田氏に限らず,日本には各界にそれぞれ素晴らしい経営者や技術者がいる。一概に優劣を付けることは出来ない。
そんなことは大前提とした上で,なぜこういう話でジョブズやゲイツが引き合いに出されるのかといえば,世界経済を牽引するアメリカを代表する企業を創った人々だからだ。その文脈として,日本経済の長期停滞がある。その意味で,やはり彼らに比肩する日本人はまだいない,というのが現実だ。
もう一つ,日本人がやりがちな議論として,「GAFAM もジョブズもゲイツもアメリカでしか生まれていないのだから,日本だけを問題にするのはおかしい」というものがある。一見もっともらしいが,これもよく考えるといい加減な理屈で,かつてアメリカとしのぎを削った日本で情技産業が育たなかったという話と,例えばアフリカの発展途上国で情技産業が育たなかったという話は同列に語れない。
日本人が言葉遊びで気を紛らわしている内にも,中国は GAFAM に肉薄する企業を作っている。私はやはり,日本人にはこの問題に真正面から挑戦する強さを持ってほしいと思う。
「黒船返し」は知能増幅で
こんなことを散々考え尽くし,私が辿り着いたのが知能増幅という分野だ。人間の知能を技術的に増幅しようというもので,昔から学術的には認知されているが,人工知能とは世間的な認知度・話題性・市場規模において雲泥の差がある。
その大きな理由として,実用化の見込みが全くないということがあった。例えば,脳にチップを埋め込むとか,遺伝子を弄るとか,そういう SF じみた空想から何十年ものあいだ抜け出せていなかった。これでは,技術的にどうというより,やりたがる人を見つけるのが難しいだろう。
私は,この知能増幅と,いま Notion や Roam Research といったサービスで注目されつつあるメモサービスを結び付け,「知能増幅メモサービス」という形で触れる知能増幅技術を開発した。それがこのデライトだ。
知能増幅技術は,人工知能も含めて,人間の知性が生み出すあらゆる産物に寄与するという意味で,知識産業における最も根源的な機関といえる。これを利用して日本で「知識産業革命」を興し,新近代化の推進力にしようというのがジパング計画だ。
そしてこれは,人間が知的生命体である限り,半永久的に意義が失なわれることのない技術だ。日本人の粘り強さを活かすにはもってこいだろう。「日本の全てをかけてもいい基幹産業」として,私が想像しうる最大限の現実解だ。
私はたまに,「自分が GAFAM の完全な経営権を与えられたらどうするか」という思考実験をしてみることがある。結論はいつも変わらない。「全ての事業を売り払ってでも知能増幅技術の開発に注ぎ込む」だ。Windows,Mac,iPhone,Google 検索,Android,YouTube,Amazon,Facebook……これまでのあらゆる情技製品よりも知能増幅技術に可能性を感じるからだ。
またとんでもないことを言っているようだが,これが米中凌駕を実現するような革新的技術を具体的に想像するということなのだと思う。
日本人に近代化とは何かを知らしめたアメリカの黒船来航からおよそ170年,いまこそ,世界に類をみない「一億総知能増幅」の新近代国家で「黒船返し」をする時なのだ。
