- デライトの対 Notion 戦略(2日)
- デライトはなぜ“抽象的”なのか(3日)
- 一夜革命とは何か(4日)
- 日本語におけるルビの重要性について(5日)
- デライトの“掴み”の良さ(6日)
- デライト開発者が見る個人知識管理サービス市場(7日)
- 市場活動の難しさについて(9日)
- 全知検索について(10日)
- KNS について(11日)
- 「希哲館」の由来(13日)
- 続・「希哲館」の由来(14日)
- 技術としての希哲館(15日)
- 「デルン」の由来(16日)
- 日本の第二次大翻訳時代に向けて(17日)
- 希哲館事業についての漠然とした思い出(18日)
- ジパング計画について(19日)
- 世界一“面白い”ネット献典を……という誤算(20日)
- 人間への共感(21日)
- 基礎所得保障から基礎雇用保障へ(23日)
- いくつかの岐路(28日)
- 個人知識管理と新しい人間(29日)
- オリジナルの文明を作るには(30日)
- 世界金融危機は日本人の何を変えたのか(31日)
{オリジナルの文明を作るには K#F85E/E74C-D3F7}
宇田川浩行希哲館事業を一つの新しい「文明」として私が認識し始めたのはいつだったか。デルンの実用化を果す希哲6(2012)年頃には「内なる文明」とか「腫物文明」とか言っていた記憶があるので,デルンという“文明の利器”の存在は大きかったのだろう。
新現代思想を構築し,希哲紀元を作り,大和民族から「希哲民族」をスピンオフさせたりまでした。実際,ここまで独自性を高めると「希哲文明」としか言いようがない。
ここまでのことをして自作文明や自作民族を持っている人間は世界中見渡しても他にはいないだろう。そんな希哲館事業でなければ,「イデオロギー定食」という発想も無かったはずだ。
(途中で何が書きたかったのか忘れたのでこの文章は『道草録』に入れないが,消すのも惜しいので残しておく)
{個人知識管理と新しい人間 K#F85E/E74C-CE0B}
宇田川浩行個人知識管理(PKM)は人類知のあり方を変える。まだなかなか理解してもらえていないが,これはデライトも含めた希哲館事業の根底にある考えだ。
ヨーロッパでは,中世から近代に移り変わる過程で新しい思想家が多く生まれた。彼らは,宗教的権威から人間の可能性を取り戻そうとした。
累新や啓蒙時代のような運動が,デライトのような個人知識管理サービスを中心にまた現れるだろう,と私はみている。
いまや技術は「新しい神」となりつつある。人工知能や仮想通貨(暗号通貨)に対する熱狂も,人間を越えた何かへの期待という意味で,かつての神への信仰に近いものがある。
私が提唱する,個人知識管理サービスの発展形としての知能増幅(IA)サービスは,「新しい人間」のための技術だ。
司組に埋没しつつある人間の可能性と主体性を取り戻す。そんな世界史を変えるような運動が,日本から始まろうとしている。
{いくつかの岐路 K#F85E/E74C-05DC}
宇田川浩行私は12歳頃から変わった道を歩むことになったので,これも岐路といえばそうかもしれない。ただ,意識的にこの道を選んだわけではないし,その後のことも全く想像出来なかった。なんとなく迷い込んだという感じだ。
分かれ道を前に立ち尽くすような人生の岐路という意味では,やはり17歳の頃を思い出す。「閃き」で輪郭法と希哲館事業の青写真が出来た頃だ。
希哲館事業に進むべきか,その気持ちを押し殺して普通の人生に進むべきか。どちらを選んでも困難は目に見えていた。結局,決心して希哲館事業発足にいたるまで4年ほどかかった。希哲元(2007)年のことだ。
次の岐路は,希哲6(2012)年,デルンの実用化直前のことだった。
当時の私は,何かと縁に恵まれ,個人事業主として好条件で司組開発の仕事をもらったりしていた。このまま無難に仕事を続けるか,思い切ってデルン開発に注力するか,という岐路だ。
この時は,あまり迷いもなくデルン開発を取った。希哲館事業を始めた時点で,私の目標は,とりあえず世界史上最大の企業を創り知識産業革命を実現することだった。それすら最終目標ではない。このまま無難にやっていれば,そこそこの大企業を創るのが関の山だろうと思った。
デルンの実用化成功とともにそれまでの仕事は全て止め,デルンを育てることに注力するようになった。それから更に8年ほど経った希哲14(2020)年,デルンはデライトとして世に出る。
そして今年,開発が上手く行き,デライトの成功も時間の問題という所まで来て,また一つの岐路があった。じっくり時間をかけてデライトを成功に導くか,多少リスクが増してもデライトの成功を急ぐか,という岐路だ。
もちろん,私はデライトの成功を急ぐことにした。デライトの成功は,希哲館事業の成功の過程に過ぎない。デライトだけが成功しても意味がなかった。これは「デライトはなぜ成功を急ぐのか」でも書いた通りだ。
結局,私は無難な道を選ぶということが出来なかった。希哲館事業の成功への希望が残るかどうか。17歳の頃から,それだけが私にとっての死活問題だった。どんなに安全だろうとその希望がゼロなら私は生きていられないし,どんなに危険だろうとその希望がわずかにでもあれば生きていける。
今のところは環境のおかげで良い暮らしが出来ているし,見通しも良いが,生き方そのものがとんでもない綱渡りには違いない。そう考えてしまうと,具体的な心配もないのに先が思いやられる。
{基礎所得保障から基礎雇用保障へ K#F85E/E74C-B5DA}
宇田川浩行一昨日の一日一文で私の変わった“金銭欲”ついて少し触れたが,これが実は希哲館事業の核心に近い要素かもしれない。
希哲館事業にはもともと,“資本主義と共産主義の綜合”という目標が含まれている。その新しい経済思想を「相通主義」と呼んでいた。この名前も最後に見直したのがだいぶ前なので,もう少し良い名前がある気もするが,しばらく仮称としておこう。
相通主義というのは,資本主義の流儀に則って共産主義の理想を(本来の共産主義とは別の形で)実現してしまおうという考え方だ。その鍵になるのが「相通化技術」と呼ぶ技術で,情報技術と交通技術に大別される。希哲館事業では,その情報技術を「虎哲」,交通技術を「竜力」と呼び,開発計画を「竜虎計画」と呼んでいた。
その虎哲の核心となるのが輪郭法で,デルン,デライトとなっていく。こう階層的に整理してみると,希哲館事業構想がいかに巨大か分かる。「人類史上最大の事業構想」というのも伊達ではない。事業の全体像を簡単に説明しておこうと思うだけで,本題について忘れそうになる。
ベーシック ウェルカムとは
そんな希哲館事業で私がやりたいことは,簡単に言ってしまえば,“世界史上最大の企業”を作って雇用を万人に開放することだ。これを「基礎雇用保障」(BW)と呼んでいる。「基礎所得保障」(BI)の代替策だ。
BI は昔から考えられてきたことだが,小規模な実験以外で実現の見通しは立っていない。いくつかの理由で,一定規模以上の国家で実現することは困難と私は見ている。
BI は社会の構成員に大きな考え方の転換を迫る。それも,持続的でなければ意味がない。やってみたが,やっぱり戻そう,という動きも当然考えておかなければならない。その割に,哲学的な弱さがある。利点とされていることも大半は希望的観測でしかない。
それに対し,BW は思想転換も政治的合意も必要としないという大きな利点を持つ。その代わり,万人に雇用を提供出来る企業を創り出さなければならない。
私はよく GAFAM を意識したようなことを語っているが,実際,この構想は GAFAM を大きく越えるような企業でなければ実現出来ない。しかし,それは不可能なことではない。
知識産業はこれまで考えられなかったような格差を生み出す。企業間も例外ではない。ついこの間まで,GAFAM の株価が東証一部上場企業全体を上回り,米国政府と対立することなど考えられなかった。その GAFAM 全体を一社で上回る企業が出てこないとも言えない。
究極の格差を制することで世界に平等をもたらす。この BW という考え方は,世界史上最大の富を生み出そうという意欲と,人並の収入があれば満足に暮らしていけるという価値観を両立させた人間にしか生み出せないものだと思う。
{人間への共感 K#F85E/E74C-BE3A}
宇田川浩行私には,いわゆる「共感力」というものが無い。時々思うことだ。
普段書いていることを見ていれば何となく分かると思うが,私は,あまり多くの人と同じような生活をしていない。これは昨日今日始まったことではない。10代の初め頃からずっと,私はこんな調子で生きて来てしまった。
反共感としての KNS
思えば,私が KNS なんてものを発明したのも,この共感力の無さによるところが大きい。
私には,主にマイクロブログ系の SNS を消極的に使っていた時期がいくつかあり,そういう時期に私を見かけた人なら分かるかもしれない。私の SNS の使い方は,基本的に独り言を延々と垂れ流す,というものだ。しかも,自分で考えた造語や翻訳語をちりばめて,だ。
最初からこうだったわけではない。最初に SNS に接したのは20歳そこそこで,その頃は周囲に合わせようとしていた。ところが,使っているうちにある問題に気付いた。同じような年頃の人達が,自分とは全く違う生き方をしているということだ。
例えば当時,よく若者の間で盛り上がっていた話題といえば,就職氷河期下での就活だとか,日本社会への悲観論だったりした。
それが私には全く分からなかった。当時の私は,希哲館事業を始めばかりだった。ろくに学校にも行かず17歳で輪郭法を閃いた私は,定職につく気も無く,どうすれば世界史上最大の企業を創り,日本を世界史上最大の極大国に出来るかということで頭が一杯だった。
「もう日本は駄目だ」「英語を勉強して日本を出よう」などという悲観論が渦巻いていた SNS で,ただ一人,「これから自分が日本を世界の中心にする」と希望に満ち溢れていたのが当時の私で,要するにずっと変わっていないのだ。最初はそれがズレていることにも気付いていなかったと思うが,流石にだんだん周囲との空気の違いが分かってくる。
SNS というのは,多くの人にとっては仲間を見つけたり,共感しあったりする場なのだろうと思う。私にとっては,使えば使うほど,自分がいかに世界の中で孤立した精神の持ち主か,ということを思い知らされる場だった。単純に,あまり面白いものではなかった。
{世界一“面白い”ネット献典を……という誤算 K#F85E/E74C-1B48}
宇田川浩行一日一文の習慣を再開したことで,私がどういう人間で,どういうことやってきたか,だいぶ伝えやすくなったと感じている。
ブログでもウィキでもない“デルン”という全く新しい情報媒体を開発,自らそれを9年も使って SNS でもなく“KNS”だと言う。“希哲館事業”で日本を世界史上最大の極大国にすると言い放ち,“希哲紀元”や“希哲館訳語”なんてものまで造ってしまう。
ほとんど環境のおかげなので威張れたことではないが,世界を見渡しても,ここまで風変わりなネット用者はいないだろう。それも,実名・顔出し,同質性が高いなどと言われる日本生まれ・日本育ちの日本人であることまで考えると,自分でも驚異的な事実だなと思ったりする。
希哲館は燃えていない
しかし,良くも悪くも希哲館事業には話題性が無い。良い意味で注目されたことも無いし,炎上したこともほとんど無い。良い悪い・好き嫌い以前に,「伝わっていない」のだ。これは誤算と言えば誤算だった。
昔の希哲館事業には秘密主義的な部分があったので,むしろ注目されては困るとすら思っていた。これから事業について知ってもらおうという段階になって,はじめてその伝わらなさを実感した。
ネットの変化
この誤算がなぜ生じたのかと考えてみると,私自身が200X年代前半くらいまでのインターネット文化に染まっていた,ということがありそうだ。
当時のネットの中心にいたのは研究者や好事家,あるいは「暇人」と呼ばれる人達だった。彼らは,世界中の珍しいもの,刺激的なものを常に探していた。私もその一人で,湯水のように持て余した時間を,「より面白いもの」探しに費していた。
そんなネット献典も,あまりに時間があるとほとんど見尽くしてしまう。その退屈をしのぐために,自分で誰もやらないことをやってみたくなる。どうせなら,「世界一“面白い”ネット献典」を自分で作ってやろう……思えば,希哲館事業にはそんな側面があったかもしれない。
時代は変わった。いまやネット用者の大多数が「普通の人」だ。普通に学校や会社に通い,わずかな自由時間にネットを覗く。
ネットにおける「面白さ」も変わった。それは珍しさや刺激ではなく,気軽に楽しめることであったり,皆でイジって遊べることであったりする。一人で PC に向き合うのではなく,「共有」が重要になったことも大きいのだろう。
これは何だろう,この人はどういう人だろう,という所で少しでも時間がかかると,あっという間に埋もれてしまう。自分が面白いと思えても,みんなに面白がってもらえることが期待出来ないと広がらない。「文脈」も邪魔で,話題は一口サイズでなければならなくなった。Twitter が強力なわけだ。
嘆いていても仕方ないので,希哲館事業もこの時代の変化に合わせなくてはならない。デライトはそんな意識から始めた望事でもあったが,多くの人に楽しんでもらえるものにするには,まだまだ努力が必要だ。
{ジパング計画について K#F85E/E74C-8DCA}
宇田川浩行希哲館が提唱・推進する日本の産業政策に「ジパング計画」がある。その最大の特徴は,人工知能や仮想通貨といった“流行”ではなく,「知能増幅」(IA: intelligence amplification)を中心に据えている点にある。
その目標は,知能増幅技術による知識産業革命を起こし,いわゆる GAFAM を大きく凌ぐ日本企業を創出,日本を世界史上最大の極大国に導くことだ。この日本を模体として,自由と知が共存する新しい国際秩序を創っていく。
この構想を可能にしたのは,言うまでもなく「世界初の実用的な知能増幅技術」であるデライト(デルン)だった。デライトは,いわゆるメモサービスから知能増幅サービス(知能増幅メモサービス)への発展が可能であることを理論化・実証した世界初の例でもある。
知能増幅という概念は昔からあるものだが,人工知能に比べ話題性に乏しかった理由は,実用化の目処が全く立っていないことにあった。例えば,脳にチップを埋め込むとか,遺伝子を弄るとか,現実には多くの人に受け入れられそうにない空想的な構想がほとんどだった。それを容易に触れられるものにした,という点に知能増幅技術としてのデライトの革新性がある。
昔,テッド・ネルソンという人が始めた「ザナドゥ計画」というものがある。世界で初めて「ハイパーテキスト」という概念を提示し,いま我々が使っているワールド ワイド ウェブの原型となった構想だ。
勘報機における情報の概念に革新をもたらそうとしながら頓挫した例として,ビル・ゲイツが提唱していた WinFS とともに私がよく挙げていたのがこのザナドゥ計画だった。デライトは,その志を継ぐものでもあった。
「ザナドゥ」というのは,本来はモンゴル帝国の上都のことだ。マルコ・ポーロが『東方見聞録』で広めてから,ヨーロッパでは「東洋の理想郷」に近い意味を持つようになった。
同じ『東方見聞録』に由来するのが,日本人にはお馴染みの「黄金の国ジパング」だ。当時の日本と思われる国が,金をよく産出するきらびやかな島国として伝えられた。これが「ジャパン」など外国語で日本を指す言葉の由来だとされている。
残念ながら,今の日本は知識産業で出遅れ,アメリカとの差は開く一方,中国にも追い抜かれ,“衰退途上”と言われる状況にある。
そんな日本を,古の伝説をなぞるように,「知の黄金郷」にしてみせようではないか。「ジパング計画」とは,日本の歴史と勘報の歴史の交差点に付けられた名前なのだ。
{日本の第二次大翻訳時代に向けて K#F85E/E74C-9D63}
宇田川浩行そろそろ希哲館翻訳事業についても何か書いておこうと思いデライトをくぐっていると,6年以上前に書いた懐しい文章(「翻訳とは何か」)を見つけた。当時の私の「第二次大翻訳時代」への意気込みが伝わってくる。
当時はまだそれほど蓄積が無かった希哲館訳語も今や「日本語史上最大の翻訳語体系」と称するまでになり,自ら開発するデライトも翻訳語研究にはこれ以上ない通類になっている。ここで改めて,第二次大翻訳時代への思いを記しておきたい。
日本にも「大翻訳時代」と呼ぶべき時代があった。言うまでもなく,膨大な外来語が翻訳された江戸時代後期から明治時代にかけてのことだ。この時代に生まれた翻訳語は現代日本語に欠かせないものになっている。
そんな日本語も,どこで何を間違えたのか,カタカナ外来語で溢れかえるようになってしまった。時代の流れが速いから翻訳語なんか造っても意味が無い,とやってもみずに言う者が多い風潮に逆らって,私は翻訳活動を続けてきた。
そうしていると,「何で翻訳語なんか造ってるの?」と言われたりする。今我々が当たり前のように使っている日本語にどれだけの翻訳語が含まれているか,知らないわけではないだろう。ではカタカナ語に満足しているのかというと,「カタカナ語の氾濫」はたびたび社会問題のように語られる。それでも,「なら翻訳してやろう」という運動は無いに等しい。
昔から,独自に翻訳語を造ってみようという人はいて,私もいくつか例を知っているが,その全てが世間には全く知られていない。そういう運動を誰かが始めてみても,一向に火が付かないのだ。そして自然消滅のように消えていく。これは面白いといえば面白い現象だ。
私もその運動を始めた一人だが,翻訳語についての話というのは本当にウケが悪い。ブログ記事のようなものを書いても握接が集まることは無いし,Twitter のような所でつぶやいてみても反応はほぼ無い。まさに「しーん」という感じだ。
ただ,私はそれもこの仕事のやりがいだと思っている。いかに現代日本人にとって外来語翻訳というのが難しいことか,それを思い知らされるほど,その難しいことをやってこれたことに対する自負と誇りも大きくなる。
これからも希哲館は,この日本で知識産業革命を実現し,日本語を英語に代わる「世界の言語」とすべく翻訳語整備を進めていく。そして,世界史を変えた「知恵の館」(バイト・アル=ヒクマ)にも劣らない翻訳事業にしたいと思っている。
{「デルン」の由来 K#F85E/E74C-A0EA}
宇田川浩行先日「希哲館」の由来について書いたので,命名に関する思い出話ついでに,今度は「デルン」(deln)の由来について書いてみよう。
デライトで採用している CMS としてしばしば言及するこのデルンだが,「ブログ」や「ウィキ」に相当するものだと思ってもらうのが一番分かりやすいだろう。例えば,Wikipedia がウィキを利用していたり,アメーバブログがブログを利用しているように,デライトはデルンを利用しているわけだ。
これだけで,デライトの独自性が常軌を逸していることはお分かりだと思う。長年インターネットで広く使われてきたブログでもなくウィキでもなく,全く新しい CMS の形態から考案し,サービス化したのがデライトだ。ちなみに,「デライト」(Delite)の由来は「ライト(簡易)版デルン」(Deln Lite)だ。
そのデルンの名は,基礎理論である「輪郭法」に由来している。輪郭法は英語でデリノグラフィー(delinography)という。デリノグラフィーはデリニエーション(delineation)という英単語に由来している。輪郭を描くこと,描写,などを意味する言葉だ。こう辿っていくとややこしい話だが,それだけ長い文脈があるということだ。
さて,デリノグラフィーを縮めたのがデルンだが,この名前を考えたのは希哲6(2012)年頃で,デルンの実用化直前だったのでさほど詳しい記録も残っていない。
ただ,当時はブログやウィキの代替を強く意識し,名前もそれらの特徴を踏まえようとしていたことはよく覚えている。つまり,ラテン文字で4文字,カタカナで3文字,一見不思議な呪文のような響きだが,由来はちゃんと説明出来るという名前だ。ブログ(blog),ウィキ(wiki),デルン(deln)と並べてみれば分かりやすい。
特にデルンという言葉の何とも言えない響きには,命名から9年ほど経った今でもまだ慣れない。何度口にしてもすっきりしない。もっと良い名前があるんじゃないかと,何度思ったか分からない。
ただ,この微妙な語感こそ記憶に残りやすい言葉の特徴で,ブログやウィキが普及した理由も実はここにあるのではないかと思っている。何かよく分からない言葉を最近よく聞くなと思えば,それについて知ってみたくなるのが人の性だ。
一方で,「デライト」はごく簡単に,すっきり飲み込みやすい名前にすることを意識した。よく使われるカタカナ英語なので,それ自体に印迫は無い。この対照的な「デルン」と「デライト」を上手く使い分けて市場活動に活かしたいところだ。
{技術としての希哲館 K#F85E/E74C-D125}
宇田川浩行先日の一日一文「なぜデライトに希哲館事業が必要だったのか」でもデライトと希哲館事業の関係について書いたが,ここで構想されている希哲館という機関は,いわば“要素技術”でもある。
その役割は,デライトのような輪郭法応用技術に,安定した運用環境を提供することだ。
最初にこのような機関が必要だと考えた直接のきっかけは,実は「知番管理主体」の問題だった。輪郭に固有の知番を持たせるということは,少なくとも効率性を重視する限り,中央集権的な管理主体を作らざるをえない(便宜上,現在の用語を使っているが,「輪郭」も「知番」も呼び名が定まっていないような時だ)。
インターネットでは,ICANN という組織が似たような役割を担っている。例えば,kitetu.com とブラウザのアドレス欄に打ち込んで希哲館のウェブサイトに握接出来るのは,それを保証してくれる組織のおかげだ。同じように,ある知番が一つの輪郭を示すことを保証するには,何らかの機関が必要だったわけだ。
このような目的のために,いかに効率性や信頼性の高い組織を作るかということは,すでに工学の問題ではないか。そう考え,「制度工学」を提唱したこともある。希哲館では,組織のいわゆる「制度設計」を工学として捉えている。
そのためには,“絶対的独立性”が必要になる。私がデライトの安定拡大戦略を重視する理由でもある。
分散技術が注目される近年だが,私は昔から中央集権型の可能性を追求することを考えてきた。中央集権的な制度が信頼出来ないなら,信頼出来る制度をゼロから作ってしまえばいい,というわけだ。
技術としての希哲館という問題意識は,“技術としての中国”という目の前の脅威を通して,自由主義における“技術としての国家”という問題意識に発展しうる。これについてはまた後日の一日一文で書くだろう。