{Visual Basic}{人気描出}{vbNewLine}{vbLf}{vbCr}{Visual Basic の定数}{vbCrLf}{改行コード}{違い}{広告付き}...=}(11)

{vbLf,vbCr,vbCrLf,vbNewLine の違い K#F85E/A-4B1D}

それぞれ,Visual Basic改行コードを表す定数

vbLf
ライン フィード(line feed)Linux 等で一般的な改行コード。
vbCr
キャリッジ リターン(carrige return)Mac OS X 以前の Mac OS 等で一般的な改行コード。
vbCrLf
キャリッジ リターンとライン フィードの連続,Windows 等で一般的な改行コード。
vbNewLine
各プラットフォームで最適な改行コード。
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{人気描出}{凡作とは何か}{名作と傑作の違い}{良作と佳作の違い}{評価}{芸術}{公開}=}(7)

{「良作」と「佳作」の違いについて K#F85E/A-772A}

何らかの作品を評価するとき,大体,評価の高い順に名作傑作秀作良作佳作凡作駄作などという表現が使われるが,このうち,良作と佳作の違いがとても微妙だ。

秀作・凡作・駄作にはあまり疑問の余地がない。名作・傑作は,極めて優れた作品を傑作として,そのうち高い名声と実質が一致しているものを名作とするのが適当だろう。言い換えれば,評者がその作品の名を永遠に残すに値するものとしているわけで,傑作よりも厳しい条件があると言える。しかし,名作を単に傑作の上位と位置付けてしまうと,やや問題がある。例えば,甲乙つけがたい無名の傑作と有名の傑作があったとして,有名な方は名作と呼べるのに無名な方は名作とは呼べない。これは単に,世間の評価の差であって,内容の差ではない。つまり,評価軸が混在していて,直線上に並べようとすると矛盾が起きてくる。だから,「名作は傑作の一種」としておくのが無難だろう。

もっとも,名声というのにも,老若男女だれにでも知られているという大衆的なものから,一般には知られていないが,その道に精通した人なら誰でも知っているというものまで色々ある。少なくとも,名作の評価に「国民的人気」とか「世界的人気」が必要というわけではなさそうだ。だから,「隠れた名作」なんて表現があるのだろう。

似たような問題で,さらに難しいのが良作と佳作の違いだ。調べてみると「良作は佳作の上」という見解が意外に多い。個人的に,これには強い違和感を覚える。「良」も「佳」も「よい」と読める漢字で,字義の上では,「良作」と「佳作」に明確な上下の差はない。強いていえば,「良」というのは広い意味での「よさ」であって,佳というのは「(華美ではなく)整った美しさ」という意味を含んだ「よさ」のことだ。つまり,上下ではなく性質の問題であることになる。

私は,名作・傑作の問題と同様に,「佳作は良作の一種」で,「美しい良作のこと」なのではないかと考えている。評価の高さということであれば,条件が厳しい分,「佳作は良作の上」ということになる。実際,何かを「良い作品」と評するのは大雑把で気軽に出来るが,「美しい作品」と評するのは少し考えてしまう。

もちろん,ここでいう「美しさ」というのは,華々しさや,形だけの美しさのことではない。「佳」という漢字に含まれているのは,どちらかというと,古代ギリシャ的な均整美のことのようだ。健全な美しさというところから,道徳的な意味での「よさ」を含んでいる点も似ている。真善美の一致という考え方もあるし,「ドブネズミみたいに美しくなりたい」という感性もあるわけで,何を美しいとするかは評者の価値観次第ということになるだろう。反対に,醜いとか粗悪だとか思っても,それがかえって良いと感じる作品はあるから,美しく良い作品と美しくはないが良い作品という分類にも意義がある。

ここまでの結論としては,作品の質はおよそ傑作・秀作・良作・凡作・駄作の五等級に分けられ,さらに傑作のうち名声が伴うものは名作,良作のうち美感が伴うものは佳作,ということになるだろうか。

{人気描出}{きゃりーぱみゅぱみゅ}{娯楽}{時記}{公開}=}(5)

{きゃりーぱみゅぱみゅの方向性に,どうしても限界が見えてしまう K#F85E/A-0BE5}

最近,きゃりーぱみゅぱみゅの方向性に,どうしても限界が見えてしまう。

当初は,確かに斬新さもあって,音楽的な魅力もあったのだけれど,{『もったいないとらんど』 #F85E/A-2D40}まで聴いた結果,もう既に創造力の源泉が枯れているのではないか,という気がどうしてもする。要は,パターン化してしまっていて,とても退屈なのだ。 コスプレじみた,おかしくて「カワイイ」格好をした普通の女の子が,{中田ヤスタカ #F85E/A-09AD}流の「いつもの」曲調で歌って踊る,という路線は,どう考えてみてもそう長くは続かないだろう。太く短かく,旬なうちに売り逃げるつもりなのか,アーティストとして末永く育てていくつもりなのか,プロデューサーがどう考えているのか分からないが,このまま行くとしたら前者以外に戦略的妥当性が見えない。 きゃりーは,ご本人いわく{レディー・ガガ #F85E/A-257A}の影響を受けているらしいのだが,音楽的な才能,パフォーマーとしての才能の差もさることながら,本人あるいは周囲が最終的に「カワイイ」しか見ていないように感じられる点は,アーティストとして見るなら両者の格の違いを端的に表わしているように思う。 その名前や,得意の「変顔」,衣装や PV など,「変」というのは,表面的に見るときゃりーとガガの共通点のようであっても,きゃりーの方には,最終的に「カワイイ」と思われたい,つまり「変だけどカワイイ」に帰着させたいという執着,あるいは媚びが見える。これこそ今の彼女がマンネリズムを招いている最大の原因ではないかと思う。 一方,ガガの「変」は*本物*なのである。ガガの「変な格好」は,そのまま単に「変な格好」に見える。カワイくもないし,カッコよくもない。時には,信じられないほどダサい。世界中から嘲笑され馬鹿にされても,それを堂々とやる。だから凄みがあるし,何周もしてカッコいいと思える。それは,「どう見られるか」に囚われていないという意味で,彼女のアーティストとしての*自由*に繋っている。 ガガが変顔なんてものをよくするのかどうか,特別ファンでもないので知らないが,もし彼女に変顔をさせたら,面白くもない,むかつくだけの顔をしてくれるのではないかと私は期待する。 近年の日本人アーティストとしては突出して海外で評価されている点はきゃりーのセールス上の特徴でもあるが,これをもって安易に評価を上げる気には,私はなれない。{原宿 #F85E/A-6531}ファッション的な彼女のスタイルが外国人にとって表面的に物珍しく刺激的であることは,どちらかと言えば差し引いて見なければならない要素だろう。結局,「外国人から見たカワイイ・オモシロイ」に束縛されるのであれば,「新しい表現を生み出す」アーティストとしてのダイナミズムはもう枯れていると言わざるを得ないからだ。その意味で,{『にんじゃりばんばん』 #F85E/A-C140}には媚びが見え過ぎてちょっと幻滅した。 カメレオンがどれだけ皮膚の色を変えてもカメレオンでしかないように,原宿というのは表面的にはとても多様で色彩豊かに見えて,実は感性が通底している人が多い街だ。彼女のファッション的な色彩の豊かさにも,どこか原宿的な浅さが感じられてしまう。 きゃりーのようなスタイルの最大の弱点は,色々な意味で,つまり流行的にも肉体的にも「加齢に弱い」ということだろう。さすがに,このスタイルを20代後半まで続けるのはきついだろうし,方向転換も容易ではない。比較的似たスタイルで流行した{篠原ともえ #F85E/A-789D}も,少なくとも商業的には脱皮に失敗した((もちろん,篠原も堅実に活動を続けて評価はされているし,商業的な成功と本人の幸福とが別問題であることは言うまでもない))。 個人的に,きゃりーが特に優れていたのは,「顔の淡白さ」だと思う。あの濃い衣装を着こなして,確かにカワイイと思わせるほど,天才的に顔に癖がない。例えば,人気ハーフタレントの{ローラ #F85E/A-543B}が同じことをやったら,むしろ気持ち悪くなってしまうだろう。その上に典型的な日本人体型で,PV を見ても分かるスタイルの悪さも今はまだ良い意味での幼さとして,彼女のキャラクター・演出に調和している。これは,確かに日本人ならではのものだろう。 しかしいずれも,加齢に耐えうる要素ではない。決まりきった「カワイイ」のために踊らされているだけなら,外国人はともかく,日本人が飽きるのは時間の問題だ。この程度のことはプロデュース側も十分承知しているのだろうけれど,今後どうやって彼女を発展させていくつもりなのか,とても興味深い。 ((敬称略))
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{演技論}{人気描出}{三船史郎}{娯楽}{時記}{公開}{俳優}{時記}=}(8)

{最近,三船史郎が気になる K#F85E/A-2F2D}

最近,気になる俳優がいる。三船史郎である。

戦後日本,もとい20世紀の映画界を代表するといっても過言ではない俳優・三船敏郎の長男であるが,知らない人がほとんどだろう。それもそのはず。俳優として生きていくには,苦労の方が多かったのではないかと余計な憶測をしてしまうほど三船の名は重い。普通の人間なら,七光を通り過ぎて白飛びしてしまう。

もっとも,三船史郎の演技に対する評価は,一般的には低いようだ。あちこちで「大根」と書かれている。私はかなり以前から氏の存在を知っていたのだが,つい最近『バルトの楽園』で初めて演技を観た。最初は,「適当な劇団から適当に引っぱってきたんだろうな」と思うほど芝居下手に感じた。とにかく妙に力んだ演技をする人で,明らかに作品からも他の俳優からも浮いているのである。

ただ,観終わってしばらくすると,この作品で一番記憶に残っているのが氏であることに気付いた(次いで中山忍の可愛さ,國村隼ドイツ語。そこで調べてみると,三船史郎その人だったというわけである。

考えてみると,三船敏郎もしばしば「大根」と評されることがある。三船の魅力は圧倒的な存在感であって,理論的な意味における演技の巧拙ではないと。また,今でいう「空気を読めない人」であったことも有名である。どうしても場から浮いてしまう。記憶に残ってしまう。だから三船敏郎は世界的スターだったのかもしれない。同時代の演技派二枚目であり空気を読めてしまった仲代達矢とは,名俳優同士ながらも対照的である。

もしかすると,三船史郎は三船敏郎の精神を良くも悪くも純粋に受け継いでしまった稀有な俳優なのではないだろうか。氏の演技を少し観ただけで,そんな気がした。いまはまともに映画を鑑賞できる時間がなかなか取れないのだが,もっと出演作を観てみたい,という気にさせられている。

(敬称略)

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{リンチ}{人気描出}{ジェシー・ワシントン}{人種差別}{私刑}{黒人差別}{公開}{素描}=}(8)

{ジェシー・ワシントン私刑事件 K#F85E/A-A1D1}

1916年5月8日,アメリカ合衆国テキサス州ウェーコで,農場で働くアフリカ系アメリカ人のジェシー・ワシントン(当時17歳)が,ルーシー・フライヤー(当時53歳)の強姦・殺人容疑によって逮捕された。

同15日,取り調べ・裁判の過程に不審点があったにも関わらず,ほぼ白人で占められていた陪審員の決断は早く1時間程で死刑判決が出た。

退廷しようとするワシントンであったが,興奮した傍聴人達はワシントンに掴みかかり裁判所から引きずり出した。さらに,ワシントンは首に鎖をかけられ町の広場まで引きずられた。広場に着き,裸にされ殴る蹴るの暴行を受けたワシントンは,そのまま木に吊るされ,全身に油をかけられた。暴れるワシントンの指や爪先,性器を切り落とした群集は,ついに火をつけてワシントンを焼き殺した。

この騒ぎは野次馬を集め,最終的には1万人を超える群集がこの私刑を傍観していた。木に吊るされたまま黒こげの遺体となったワシントンを笑いながら観ている群集の写真が残っている。

合衆国においてこの事件は,当時の同国南東部で多発していた人種差別にもとづいた死刑(リンチ)事件の代表例としてよく知られている。

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{人気描出}

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