{希哲館}{希哲館事業}{世界金融危機}{希哲元年}{一日一文}{英語}{日本のネット文化}{終戦直後}{日本の独自性}{世界一“面白い”ネット献典コンテンツを……という誤算}...=}(56)

{世界金融危機は日本人の何を変えたのか K#F85E/E74C-1766}

先日の一日一文世界一“面白い”ネット献典コンテンツを……という誤算」でも希哲館事業ネット文化すれ違いについて書いたが,これは恐らく,単にネット人口が増えたことだけが原因ではない。

希哲館事業が発足した希哲元(2007)というのは,日本人には「リーマン・ショック」でお馴染みの世界金融危機が始まった年でもあった。

振り返ってみると,確かにこの時期,日本社会にも大きな雰囲気変化があったように記憶している。テレビでもネットでも社会の先行きに対する悲観論一色だったが,個人的に興味深いのは,ネット文化変質だ。

この頃まで,例えばいま希哲館でやっている外来語翻訳であったり,独自の応司(OS)開発といった,日本の独自性強化しようという活動ネット散見されるものだった。

しかし,世界金融危機を境に,その気運が一気に萎縮してしまった印象がある。「長い物には巻かれよ」「寄らば大樹の陰」と言わんばかりに,英語アメリカ製盤本プラットフォームへの追従がよしとされるようになった。「ギブ・ミー・チョコレート」ではないが,いま思えば,終戦直後雰囲気に近かったのかもしれない。

不況ということは,企業に金が回らなくなり,何をするにも予算が減り,にあぶれる者が増えるわけで,独自性主体性なんてものは“贅沢”になる。生き残るためには自尊心より費用対効果コスパだったのだろう。

今の希哲館事業は,元気希望野望に満ちていた頃の日本のネット文化温存しているとも言える。ここから再びそんな気運を盛り上げていきたい。

{希哲館事業}{希哲元年}{一日一文}{デライト開発}{希哲15年}{希哲14年}{希哲6年}{デライト}{希哲15年5月の一日一文}{先が思いやられる}...=}(75)

{いくつかの岐路 K#F85E/E74C-05DC}

私にも,いくつか人生の岐路というべき場面があった。

私は12歳頃から変わったを歩むことになったので,これも岐路といえばそうかもしれない。ただ,意識的にこの道を選んだわけではないし,その後のことも全く想像出来なかった。なんとなく迷い込んだという感じだ。

分かれ道を前に立ち尽くすような人生の岐路という意味では,やはり17歳の頃を思い出す。「閃き」で輪郭法希哲館事業青写真が出来た頃だ。

希哲館事業に進むべきか,その気持ち押し殺して普通の人生に進むべきか。どちらを選んでも困難は目に見えていた。結局,決心して希哲館事業発足にいたるまで4年ほどかかった。希哲元(2007)のことだ。

次の岐路は,希哲6(2012)デルンの実用化直前のことだった。

当時の私は,何かと恵まれ個人事業主として好条件司組システム開発仕事をもらったりしていた。このまま無難に仕事を続けるか,思い切ってデルン開発注力するか,という岐路だ。

この時は,あまり迷いもなくデルン開発を取った。希哲館事業を始めた時点で,私の目標は,とりあえず世界史上最大の企業を創り知識産業革命実現することだった。それすら最終目標ではない。このまま無難にやっていれば,そこそこの大企業を創るのが関の山だろうと思った。

デルンの実用化成功とともにそれまでの仕事は全て止め,デルン育てることに注力するようになった。それから更に8年ほど経った希哲14(2020),デルンはデライトとして世に出る

そして今年開発が上手く行き,デライトの成功時間の問題という所まで来て,また一つの岐路があった。じっくり時間をかけてデライトを成功に導くか,多少リスクが増してもデライトの成功を急ぐか,という岐路だ。

もちろん,私はデライトの成功を急ぐことにした。デライトの成功は,希哲館事業の成功過程に過ぎない。デライトだけが成功しても意味がなかった。これは「デライトはなぜ成功を急ぐのか」でも書いた通りだ。

結局,私は無難な道を選ぶということが出来なかった。希哲館事業の成功への希望が残るかどうか。17歳の頃から,それだけが私にとっての死活問題だった。どんなに安全だろうとその希望がゼロなら私は生きていられないし,どんなに危険だろうとその希望がわずかにでもあれば生きていける。

今のところは環境のおかげで良い暮らしが出来ているし,見通しも良いが,生き方そのものがとんでもない綱渡りには違いない。そう考えてしまうと,具体的心配もないのに先が思いやられる

=}
{希哲館}{希哲元年}{一日一文}{明治時代}{デライト}{希哲15年5月の一日一文}{有力候補}{希哲軒}{醜いもの}{名を体を表す}...=}(77)

{続・「希哲館」の由来 K#F85E/E74C-7DB0}

折角なので,昨日の一日一文で書いた「希哲館命名思い出話を続けてみよう。

14年ほど前,当時の私が持てる知識理想の全てを注ぎ込み,名付けたのが「希哲館」だった。その後,私は膨大な造語翻訳語考案し,様々な物事の名前を考える営みを「最小文学」とすら呼ぶようになった。しかし,「希哲館」を越える名前が出来たと思えたことはない。そういう意味では私の最高傑作だ。

名を体を表すとも言うが,ある名前が良いかどうかは,それが指し示す物によって変わるものだ。醜いものにどれだけ表面的美しい名前を付けても,それは良い名前とは言えない。

後に「希哲館」と呼ばれることになる“それ”は,デライト基礎にもなっている輪郭法武器に,知による産業革命知を共有する民主主義確立目指す機関として構想されたものだ。それは在野自由力強さを持ちながら,未来公共を担う大きさをも兼ね備えていなければならない。これに対する「希哲館」以上の名前はいまだに見つかっていない。


さて,「希哲」の部分に関しては昨日の一日一文で書いた通りだが,この「〜館」の部分にもそれなりのこだわりがあった。

希哲院」では気取り過ぎ,「希哲屋」「希哲軒」「希哲亭」では気軽過ぎ,「希哲楼」では派手過ぎ,「希哲庵」では地味過ぎ……最終的に,「希哲館」以外では「希哲堂」や「希哲荘」などが有力候補だった記憶がある。

「〜館」は,近世までは藩校明倫館造士館……)などによく見られ,近代以後は大使館公民館図書館博物館美術館など,交流文化に関わる施設に広く使われるようになった。明治時代の「鹿鳴館」,バグダードの「知恵の館バイト・アル=ヒクマのように歴史的な事業を連想させるものでもあった(後に薩摩藩の「集成館」にも似ていることに気付き,集成館事業になぞらえ「希哲館事業」という表現を使うようになった)。「」が持つ歴史的用法現代におけるイメージ総合して,これが最も思い描いているものに近いと考えたわけだ。

……「希哲館」に関する話は,まだまだ書き尽くせそうにない。また気が向いたら続きを書こう。

=}
{希哲館}{希哲が自由の要}{希哲館事業}{希哲元年}{一日一文}{開発}{希哲紀元}{西周}{デライト}{希哲15年5月の一日一文}...=}(67)

{「希哲館」の由来 K#F85E/5B28-15EB}

先日の一日一文なぜデライトに希哲館事業が必要だったのか」でも書いたように,デライト希哲館事業一環として開発されている。

今日は,この「希哲館」という命名に関する思い出話でも書いてみようと思う。


14年ほど前にこの事業を始める時,まず考えたのは,事業の理想をどのような言葉表現すべきか,ということだった。後からコロコロ変えたくなかったので,半永久的に使うつもりで徹底的考え抜いた

最初に思い浮かんだ言葉の一つとして強く記憶に残っているのは「自由」だ。希哲館は「自由館」だったかもしれない。

ただ,これでは何かが足りないと感じた。当時の私は,この「自由」が現代においては意味を失いつつある,と感じていた。かつて,「自由」を掲げることに意味があったのは,「自由の敵」が割と明確だったからだ。しかし,いま重要なのは,何によってどのように自由を守るのか,ということだ。「自由」だけではその回答にならないのだ。

もう一歩踏み込んだ表現を見つける必要があった。それが「希哲」だ。西周という人物がむかし考えたフィロソフィー翻訳語に「希哲学」というものがある。これが変化して今でいう「哲学」になった。失われた「」を取り戻し,フィロソフィーを万人共有出来る理念にしたい,と考えた。誰もが賢哲にはなれないが,意志さえあれば誰でも希哲の人にはなれるからだ。

つまり,知を希求することフィロソフィーこそ,これからの自由になる。それが「希哲館」の名にこめられた思いだ。

それから10年以上経ち,反知性主義先進国課題として認識されるようになった。知識産業隆盛する一方,選り人エリート大衆の溝は広がるばかりだ。「希哲」は,万人が知の恩恵を受けられる社会を築くためのだ。


……「希哲館」の命名に関してはもっと色々な話が出来るのだが,一日一文で書くには長過ぎた。

例えば,なぜ「」を付けたのか,という話もある。希哲堂希哲院希哲荘希哲庵希哲亭……などという案があった。

偶然にも kitetu.comキテツコム が希哲館のドメインハックになった話,「希哲」がそのまま希哲紀元年号になった話も書きたかったが,また今度にしよう。

{希哲館}{希哲元年}{一日一文}{希哲館訳語}{紀年法}{紀元}{希哲紀元}{元号}{西暦}{希哲8年}...=}(77)

{希哲紀元とは何か K#F85E/E74C-DC33}

私はよく「希哲〜年」と書いている。例えば今年2021年なら希哲15年となる。これは「希哲紀元」という希哲館独自の紀年法だ。希哲館事業発足2007年希哲元年とし,そこから希哲2年希哲3年と数えていく。

この希哲紀元を私的に使い始めたのが希哲8(2014)年頃だから,もう7年ほど経つ。


希哲館訳語からも分かる通り,希哲館では日本語最重要視している。日本語の力を活かして知識産業革命を成し遂げ,日本語を世界中に広めたいと思っている。

ところがここで一つの問題があった。日本語で使える普遍的かつ合理的紀年法が無かったのだ。

我々日本人元号に慣れているし,愛着を持つ人も多いだろうが,元号はあくまでも天皇権威由来するものであり,外国人に押し付けられるものではない。紀年法としての分かりやすさ犠牲にする代わりに時代感共有しやすいなどと言われるが,それも国内の問題に過ぎない。

それでも日本人は元号を使うんだ,と言えるほど元号にこだわりがあるのかと言えば,実態はそうでもない。西暦も当たり前のように使われており,面倒だから西暦だけにしてくれという人もまた多い。ではその西暦に問題が無いのかと言えば,キリスト教価値観に基く紀年法が中立なわけはない。

キリスト教徒の少ない日本で,元号を捨てて西暦だけを使うようになった日本人というのも奇妙だろう。かといって,元号のみを使うのも皇紀を使うのも現実的ではない。併用している現状が良いのかと言うと,やはり面倒なことが多々ある。

残念ながら,日本語現状として,気持ち良く使える紀年法は無い。この気持ち悪さに自分なりに決着を付けたかった。希哲紀元を使い始めた動機はそんなところだ。


希哲紀元を初めて見た人はぎょっとするだろうが,実は,一つ一つの理屈単純明快だ。馬鹿正直過ぎるくらいかもしれない。

希哲紀元が希哲館事業発足の年を元年とするのは,希哲館にとってそれ以上に独立性を示せる出来事が無いからだ。宗教や特定の文化に依存することを極力避け,どこかに始点を置かなければならない以上,希哲館は希哲館の始まりを元年とするほかない。まあ,「苦節云年」を難しく言ったものだと思ってもらってもいい。

希哲紀元には,文化的独立性を保つという意義に加え,これまでの紀年法の欠点克服しようという試みもある。

希哲紀元は元号風だがあくまでも「紀元」なので,西暦と同じように改元は無い。ただ,「希哲」には元号同様,新時代への思いが込められている。それは今後数十年ではなく,半永久的に続く時代の名前だ。

さらに,希哲紀元には元年の前に「零年」がある。その前が「前1年」だ。つまり,歴史上の全ての年を整数として扱うことが出来,計算しやすい。これは西暦にない利点だ。


元号にも西暦にも使用義務は無く,あくまでも文化の一つとして任意で使うものだ。当然ながら,希哲紀元も私個人や希哲館の内部で使っているもので,無理に使わせたいということもない。これが本当に合理的なものなら,自然に広まっていくだろう。

ただ一つ,希哲紀元を使い始めてから年月日を書くのが楽しくてしょうがない。

=}
{希哲館事業}{希哲元年}{一日一文}{デライト開発}{希哲8年}{デライト}{勝負の月}{文章訓練}{発信媒体}{一日一文の再開}...=}(50)

{一日一文『道草録』再開とデライト近状 K#F85E/E74C-297F}

広く読んでもらうための文章を毎日一つ書く習慣一日一文」を,今日からデライト再開することにした。

文章訓練も兼ねた献典コンテンツ拡充のため,希哲8(2014)年頃から断続的にやってきたことだが,昨年デライト正式離立リリース以後はまともに出来なかった。単純にデライト開発に追われてそんな余裕が無かったということもあるし,多少なりとも時間を費す以上は効果的発信したい,という気持ちに応えられるデライトでもなかった。

最近開発が自分でも信じられないような快調ぶりで,デライトは日々着実に進歩している。発信媒体としても十分な信頼性機能性を有するようになってきた。機運が熟したということだろう。

一日一文は1時間以内を目安に書くことにしているので,あまり凝ったものにはならないと思うが,デライト希哲館事業について知ってもらうための文章を少しずつ書いていきたい。書いた文章は,よほどまずくなければ『道草録』という随筆集収録していくことにした。

『道草録』はもともと,希哲元(2007)年希哲館事業発足と同時に始めたブログ名前だった。途方もなく巨大な事業構想を前に,全てが手探りで,何でも試してみるしかなかった当時の私の心境をよく表している。初心思い出すという意味でも良いのではないかと思った。

さて,デライトは,快調な開発状況背景として収益目標達成必達期限11月1日から5月1日に早めた。つまり,今月勝負の月だ。個人知識管理大革新を起こそうというデライトの挑戦をぜひ一緒に楽しんでほしい。

{希哲元年}{一辺倒}{希哲15年4月7日のツイスト}{希哲15年4月7日}{有力視}{ブログ}{ツイスト}{WordPress}{凄い}{Movable Type}=}(10)
{希哲元年}{デライト開発}{開発}{『希哲日記』}{デライト}{数学知識}{数学の研究基盤}{数学好き}{数学の勉強}{希哲15年3月7日}...=}(32)

{希哲15年3月7日の日記 K#F85E/E74C-9AFE}

デライト開発高進捗ながら24時前には切り上げることが出来,理想に近い一日だった。

課題だったデライトの数式対応が一応実現し,何気なく始めた作業だったが意外にも色々な思いが込み上げてきた。

異常な数学好き影響数学の研究基盤を創りたいという思いは昔からあり,希哲元年には Org-Mode組み込み LaTeX について解説文を書いたりしていた。

それからデライトにいたるまで開発の方に時間を取られ,ほとんど数学知識蓄積出来なかった。十何年もの時を経て,ようやくやりたかったことの一つと繋がったわけだ。

そもそもデライト設計も,その原点である輪郭法も,非常に数学的感性思考によるものだとは感じていた。デライトと数学の親和性は高いはずだ。

これを機に数学の勉強再開しろということなのかもしれない。

=}
{希哲元年}

{}