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{マイクロブログ K#F85E/C034}

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デライトには「使い方」というページがあるのだが,これは最初の頃からまともに更新出来ていない。デライト開発もありがたいことに快調で,いちいち更新していられないほど変化が激しかった。このあたりも近日中に刷新するので,もうしばらくお待ち頂きたい。
もっとも,多くのデライト初心者が躓いているのは,細かい操作方法というより,どういう考え方で使っていくものなのか,という所なのではないかと思う。デライトで躓きやすい「使い方の考え方」について,このあたりで少し補足しておきたい。
デライトは風変わりで慣れが必要なものではあるが,特に難解なものではない。開発者の力不足による不親切さは多々あるものの,あくまで誰でも使えるものを目指している。まずは,ちょっとしたゲームのルールを覚えるつもりで読んでもらいたい。
デライトは,個人の知識をよりよく育て,生活の様々な場面で役立ててもらうためのサービスだ。それを突き詰めた結果として,互いに入れ子に出来る「輪郭」という単位で情報を扱う仕組みを持っている。
ここでいう「輪郭」というのも,まずはごく普通の言語感覚で理解してもらえればいい。ある物事の全体を取り囲むもの,という意味だ。もっと具体的にイメージしたければ,手で輪っかを作り,目に見える風景の一部分を切り取って見てほしい。写真の構図を考える時などに似たことをよくやるが,その時に手で作っている輪っかは,世界のある部分の輪郭だ。
その輪郭を,自由に“保存”出来たらどうだろうか。輪郭の中にまた輪郭を作ることも出来る。一つの輪郭は,他の無数の輪郭を含むものであると同時に,他の無数の輪郭に含まれるものになる。そのようにして,“世界 K#F85E/A-3947}を捉える”ことは{出来ないだろうか。さらに,この考え方をコンピューティングに応用することで,従来の情報管理が抱えていた問題を解決出来るのではないか。ここからデライトの輪郭という仕組みが生まれた。
例えば,ファイルをフォルダ(ディレクトリ)という入れ物で分類管理する仕組みは広く使われているものの,人間が頭の中で扱っているようには情報を扱えない。一つの物事をどこに分類するかは,見方によっていかようにも変わりうるからだ。これは,一つの情報を一つの入れ物に所属させるような「階層構造」一般の問題(こうもり問題)としてよく知られている。
他方,こうした問題を解決するため,より柔軟な「ネットワーク構造」(グラフ構造とも)を利用した仕組みも広く使われている。Wikipedia などで利用されているウィキはその代表例だ。ウィキは,ウェブのハイパーリンクという仕組みを最大限に活かし,縦横無尽にリンクを張り巡らしながら情報を整理出来るように設計されている。しかし,こうした技術も万能ではない。柔軟な分,散漫・乱雑になりがちで,焦点を絞って情報をまとめることには向いていない。
輪郭による「輪郭構造」なら,両方の利点を上手く共存させることが出来る。輪郭はいわば「宙に浮いている輪っか」なので,階層構造を持つフォルダのような入れ物とみなすことも出来るし,輪郭同士の関係はネットワーク構造のように柔軟だ。以前適当に作った雑なものだが,下図を見ればなんとなくは分かるかもしれない。
一般に,階層構造は少量の情報を明確にまとめることに向き,ネットワーク構造は多量の情報を緩やかにつなげることに向く。
ウィキなどで作られる情報のネットワーク構造は,しばしば,脳の神経細胞群が作る構造に似ていると言われる。情報同士のネットワーク状の結び付き,という大きな括りではその通りだ。しかし,脳はただ漫然とネットワークを広げているわけではない。脳科学・神経科学でも,神経細胞の結び付きには強度差があると考えられている。つまり,脳は優先順位を整理しながら情報をつなげている。「輪郭」を使ってデライトが再現しようとしているのは,この「まとめながらつなげる」脳の機能だ。
進化の観点から考えれば,動物の脳は,環境に合わせて情報を蓄積し,状況に合わせて有用な情報を素早く引き出せるように出来ていなければならない。もちろん生存のためにだ。どれだけたくさん情報を蓄えられても,必要な時に上手く引き出せなければ意味が無いわけだ。大昔から限界が知られている階層構造が,それでも必要とされ続けているのは,情報に優先順位を付けて整理していく,という脳の機能がとらえやすい構造だからだ。
個人知識管理(PKM)の分野でも,ネットワーク構造を活かしたウィキと並んで,階層構造で情報を整理していくアウトライナー(アウトライン プロセッサー)と呼ばれるものがよく使われている。非常に興味深いことに,この二つを抱き合わせたツールが近年のトレンドの一つだ(Roam Research,Obsidian など)。
脳の進化を追うようにツールも進化しているが,デライトが革新的なのは,既存の仕組みを抱き合わせるのではなく,全く新しい一つの仕組みで脳の機能を十分に再現しているからだ。慣れた利用者にとっては,その単純性がこれまでにない直感性につながる。同時に,初心者には分かりにくさの原因となってしまっている。
デライトは,“人間が触りやすいように”脳の機能を再現することに,どのツールよりも徹底したこだわりを持っている。人の脳は,長い長い進化の過程で無数のテストを通過してきた,情報処理ツールのお手本だ。その脳を使って活動している人間にとって,最も直感的に扱えるのは最も脳に似ているツールだ。そして,保存・検索・共有といった部分での脳の弱点を機械が補えば,これまで不可能だったような高度な知的活動が可能になる。
デライト上に流れている無数の輪郭が,いわば「脳のログ」であることを理解すると,初心者を面食らわせてしまっている部分の多くも理解しやすくなるのではないかと思う。
公開されることもあって,どのような内容をどのくらいの頻度で“描き出し”していいものなのか分からない,というのはデライト初心者が抱きやすい感想だろう。この点においてデライトは,活発なチャットやマイクロブログ(Twitter など)の速さで投稿(輪郭)が流れていくイメージで設計されている。それも,「廃人」達の独り言で埋め尽くされているチャットのような状態を想定している。脳のログならそうなるはずだからだ。
デライト上には,一見意味不明な輪郭も数多くある。脳のログだと考えれば,これもむしろ自然なことだと言える。デライトは,“綺麗に整えたメモ帳”を見せるためのサービスではない。頭の中にある情報を,ありのままに可視化することに意味がある。他人の輪郭を見るということは,他人の頭の中を覗いているようなもので,めまいを覚えるなら正常なのだ。
それでも,ちょっと気になった他人の輪郭から良い刺激が得られることは珍しくない。自分の輪郭を他人の輪郭を絡ませることも出来るので,デライトでは面白い知的交流が日々生まれている。疑似的に再現された脳同士が対話しているわけで,これは疑似的なテレパシーと言えるかもしれない。
新しい順に輪郭が並んでいるのも,もちろん脳のログだからだ。先日の一日一文でも書いたように,デライトは,Twitter のようなマイクロブログにも似ている。そして,マイクロブログはしばしばメモツールとして利用されている。これは,時間軸に沿って記憶を辿るような脳の機能に似ているからだ。
デライトでは,マイクロブログ感覚で思いつくままに輪郭を作り,時にはウィキのように,時にはアウトライナーやマインドマップのように,“まとめながらつなげていく”ことで「脳のログ」を可能にしている。
例えば,釈迦,孔子,ソクラテス,キリスト……あるいはカントでもアインシュタインでも誰でもいいが,後世の人間は文献からあれこれ推測するしかない「偉人」達の記憶が,このような形で残されていたら,と想像してみてほしい。百年後,千年後の人々にとって,「輪郭」は古人について知る何よりの手がかりとなるだろう。あなたにとって偉人以上に大切な人生の記憶をこれほど強く世界に刻み込める道具は他にないのだ。
工学的に人間の知能を向上させようという研究分野は,古くから「知能増幅」(IA: intelligence amplification)と呼ばれている。今や世界的な流行語である「人工知能」(AI)に比べて,語られることは非常に少ない。脳にチップを埋め込む,遺伝子を書き換えるなど,どの技術にも大きな技術的・倫理的課題があり,実用段階になかったからだ。
デライトは,それを誰でも使えるメモサービスという形で実現している「知能増幅メモサービス」であり,「世界初の実用的な知能増幅技術」だ。今後の一日一文では,この技術の歴史的重要性についても書いていきたい。
Twitter 買収騒動で,SNS における“言論の自由”についての議論が再燃している。
相変わらず誰もが SNS 上の規制について考えているわけだが,そこに誰もが納得出来る結論はなく,水掛け論の域を出ていない。これからもその域を出ることはないのだろう。表現の自由・言論の自由についての議論は今に始まったことではない。
私自身の考えは昔から一貫している。SNS における表現の自由が問題視されるのは, 発信の質に対して発信力が強過ぎるからだ。それが中傷やヘイトスピーチ,デマといった問題になっていくわけだ。SNS の構造的限界なのだから,その構造を変えてしまうしかない。
「KNS」(knowledge networking service)を標榜するデライトは,世界で初めて,理論的かつ具体的な SNS の構造改革を提案をしているサービスだ。
見ての通り,デライトは Twitter のようなマイクロブログに近い感覚で利用することが出来る。では何が違うのかというと,知識を蓄積する機能を持っていることだ。デライトは,個人がよりよく世界について知るためのメモ機能と,それを基礎とした交流機能を提供している。これがつまり KNS だ。まだ小規模ながら,実際に新しい知的交流が生まれている。
世界史的に見れば,SNS というのは衆愚政治に陥った古代民主主義の再現だ。民衆の発言権が強くなると,民衆を煽動しようとする政治家が現れる。彼らは「デマゴーグ」と呼ばれ,その煽動行為は「デマゴギー」と呼ばれる。いわゆる「デマ」はこれに由来する。
デマゴーグ達によって混迷に陥った古代社会を批判するように,ソクラテスやプラトンといった哲学者達が現れ,西洋思想の源流となっていった。こうした経緯から西洋思想にはエリート主義の伝統が根強くあり,大衆による直接民主主義は軽視されてきた。それから紆余曲折あって,エリートと大衆の折り合いを付けた間接民主主義が定着し今にいたる。
エリート任せでも大衆任せでも社会は上手く行かない。人類が長い勉強の末に到達したこの秩序を,技術で破壊し,古代に逆戻りさせたのが SNS だ。SNS で人々を煽動して支持層を固めれば,一足飛びに権力を得ることが出来てしまうわけだ。
だからといって今更エリート主義には戻れないだろう。大衆が愚かなのが悪いというなら,大衆が「皆で賢くなる」しかない。KNS は,そんな不可能そうなことを可能にする唯一の道具だ。「万人による万人のための知性主義」という,世界史上最大の課題に対する真正面からの解答なのだ。
直書き URL(<a.URI>
)を font-size: 0.9em
の等幅フォントにした(URL 装体調整前後)。字間無しは昨年6月30日の開発からだが維持する。
直書き URL のある描写が読みにくい問題はずっと以前から感じていて,何度か調整しているが,一昨日の開発中にふと,「文字サイズを小さくしていない」ことに気付いた。
昨年6月30日の開発で字間無しにしているが,等幅フォントにして変に目立ち過ぎるという理由で戻したりもしている。この時になぜ文字サイズを小さくするという発想がなかったのか不思議だ。他にも問題が山積していて思考時間が割けず,灯台の下まで目が行かなかったか。
今回は <kbd>
や <code>
の装体について考えていたところだったので,その関連で気付けたのだろう。
文字サイズはやはり0.9emが丁度良い。0.8emにすると長い URL はともかく短い URL を提示する時に今度は目立たな過ぎる。
これにより,十分凝縮されメリハリが付いたので,予てから検討していた長い URL の省略については保留とすることにした。
長い URL の省略は,簡単なようでいざ導入しようとすると意外と難しい問題がある。
まず,デライト上の文書の傾向からいっても,「ちょっと長い」程度の URL は省略したくない。URL の全体が情報として有用な場合がしばしばある。このあたりはマイクロブログなどとは事情が異なる。
では,どこで省略すべきかという問題になるが,長い URL を許容すればするほど比較的短い URL の読みにくさが解消されないというジレンマがあった。これは装体の調整で解決した。
そもそも輪結記法([ ... ]
)もあるので,現状維持で特に困ることはないだろう。そのうち https://example.com/abc ... xyx
のような省略記法を導入してもいい。
ただ,パーセント符号化の復号はしたい。これは昨年3月22日2歩で決めていたことだが,少し面倒臭い部分がありいまだに実現していない。
私には,いわゆる「共感力」というものが無い。時々思うことだ。
普段書いていることを見ていれば何となく分かると思うが,私は,あまり多くの人と同じような生活をしていない。これは昨日今日始まったことではない。10代の初め頃からずっと,私はこんな調子で生きて来てしまった。
思えば,私が KNS なんてものを発明したのも,この共感力の無さによるところが大きい。
私には,主にマイクロブログ系の SNS を消極的に使っていた時期がいくつかあり,そういう時期に私を見かけた人なら分かるかもしれない。私の SNS の使い方は,基本的に独り言を延々と垂れ流す,というものだ。しかも,自分で考えた造語や翻訳語をちりばめて,だ。
最初からこうだったわけではない。最初に SNS に接したのは20歳そこそこで,その頃は周囲に合わせようとしていた。ところが,使っているうちにある問題に気付いた。同じような年頃の人達が,自分とは全く違う生き方をしているということだ。
例えば当時,よく若者の間で盛り上がっていた話題といえば,就職氷河期下での就活だとか,日本社会への悲観論だったりした。
それが私には全く分からなかった。当時の私は,希哲館事業を始めばかりだった。ろくに学校にも行かず17歳で輪郭法を閃いた私は,定職につく気も無く,どうすれば世界史上最大の企業を創り,日本を世界史上最大の極大国に出来るかということで頭が一杯だった。
「もう日本は駄目だ」「英語を勉強して日本を出よう」などという悲観論が渦巻いていた SNS で,ただ一人,「これから自分が日本を世界の中心にする」と希望に満ち溢れていたのが当時の私で,要するにずっと変わっていないのだ。最初はそれがズレていることにも気付いていなかったと思うが,流石にだんだん周囲との空気の違いが分かってくる。
SNS というのは,多くの人にとっては仲間を見つけたり,共感しあったりする場なのだろうと思う。私にとっては,使えば使うほど,自分がいかに世界の中で孤立した精神の持ち主か,ということを思い知らされる場だった。単純に,あまり面白いものではなかった。
共感力の無さというのが現実的な問題になるのは,やはり「商売」を考えた時だ。デライトも,多くの人に気に入ってもらい,そこから利益を生み出そうとしている,という意味では立派な商売だ。
ところが私には,人の欲望というのもあまりよく分かっていない。男性で言えば,金が欲しいとか,女性にモテたいとか,そういうのが欲望の典型なのだろう。しかし,私はその手の感情を抱いたことがほぼ無い。
厳密に言えば,金が欲しいとは思う。ただそれは事業のためだ。希哲館事業の理想を実現するためには,「兆円」の単位では足りない。最低でも「京円」の金が動かせるようにしたい。そういうことはよく考える。
その一方で,私的な金銭欲には乏しい。希哲館事業を始めた当初から,私は自身も含めて全執務員の給与・報酬を「世の中の平均的な水準」にすることを決めている。つまり,どれだけ希哲社が利益を上げようが,私は月に数十万円程度の金しか受け取らない。
別に我慢をしてそうするわけではない。それが清貧思想とか社会奉仕のパフォーマンスなら,アメリカ企業がよくやるように1円の報酬でいい。私は別にそういう“思想”で金が要らないわけではない。本当に,人並程度の収入で十分満足に暮らしていけると思っているのだ。
しかし,商売をする上で,人の欲望の流れを感じることが出来ない,というのは致命的かもしれない,と思うこともある。金が欲しいという人の気持ちも,女性に囲まれて嬉しい人の気持ちも分からないのだから,少なくともそれで釣るような商売には全く向いていない。
ではどうすればいいのか。これまでの生き方はいまさら変えられない。
でも,私にも共感出来ることはある。それは,枝葉ではなくて,人間として誰もが持つ普遍的な部分への共感だ。例えば,人が転んでいるのを見れば痛そうだと思うし,泣いているのを見れば可哀そうだと思う。幸せそうにしていれば何となく嬉しい気持ちにもなる。
人間のどこかではなく,人間そのものへの共感を深めていく,そんなことに希望を見出したい。
デライトの ActivityPub 対応は結構前からある課題なのですが,やはり難しい問題が色々あり保留中ですね。
どの範囲を流すか,設定をどうするか,負荷はどうするか……特に負荷は Mastodon 運用で結構キツかった経験があり,中途半端な実装ではまずいだろうなというのがあります。
範囲と設定については,特殊な輪郭を用意して,その中に入れれば KNEST を通じて配信される,というのが一番単純に済むだろうと考えています。
マイクロブログとデライトは投稿の意識・意味合いが違うので,やるとすれば「マイクロブログ互換描出」としてやることになると思います。それが私がやっているツイストです。
結局,実装だ柔軟性だと考えると手動連携ツイスト,要するにコピペのコスパになかなか勝てませんでした。例えば,コピペ先で少し書き加えたり省略したりと融通も効きますし,PC で慣れれば1回あたり数秒の手間なので。
リンクが有効というのはありがたい情報でした。デライトの描出のようなツートが Mastodon あたりに流れ出したらかなり目を引くだろうな,とは思っていたのですが,なかなか実験出来ませんでした。