評論家や批評家と呼ばれる人にとって,行動しないということは重要な仕事なのだと思う。「言うだけのくせに」という非難に耐えて,それでも言論で注目させるのが彼らの技倆だと思うのだけれど,最近,そのような非難をかわすため中途半端に「行動」してしまう評論家が増えた。例えば,自ら作品を作ってみたり,企業を立ち上げてみたり。
行動するということは,その世界でしがらみや社会的立場をもってしまうということだ。そのせいか,このごろ刺激的な言論が消えてしまったような気さえする。「大人の事情」なんておかまいなしに,ウザいことはウザい,ダサいことはダサい,キモいことはキモい,と言えるような,「王様は裸だ」と言える子供のような人が少なくなったなと思う。
結果として,「口だけの評論家」を嫌う人達が望んでいるような「健全な社会」が訪れているかといえば,はなはだ疑問だ。
何よりも「中途半端に行動してしまう評論家」が誤解していると思うのは,評論家・批評家を名乗っている以上,世間の声に負けてなにか「行動らしく見えることをする」というのは,枝葉が風に揺られているのと変わらない「無意志」「無行動」であるという点だ。その意味では,風に逆らって不動を貫くことにこそ意志と行動力が問われているのではないだろうか。あるいは,本気で作品作りや事業をしたいなら,評論家の看板を下ろすべきだろう。
ふとこんなことを考えたのは,私自身があらゆることに対して「自分の立場」や「自分の行動」を明確にする癖があることに気付いたからだ。私は,どうしても自分が言及するあらゆる問題に対して,「私ならこうする」とか「私はこうしている」という話を付け加えてしまうのだ。ちょうどこんな風に。だから私は評論家ではないし,評論家になることも出来ないだろうと思う。かといって,世の中に自分の立場を考えすぎた言論ばかりあふれるのはつまらないとも思う。
だから,「口だけで勝負する」という本物の覚悟を持った評論家がいるなら,きっと私は耳を傾けるだろう。