{一日一文}{希哲13年5月27日}{対米従属}{愛国心}{日米関係}{公開}{政治}(7)

{対米従属と愛国心 K#F85E/5B28-C393}

安倍政権の「過剰接待」ともいえるドナルド・トランプ訪日について議論が絶えない。

言うまでもなく,トランプ氏は本国において数々の疑惑と醜聞にまみれた人物であり,ロシア疑惑に関するモラー報告書の公表以後,弾劾論もかつてない盛り上がりを見せている。大統領選を競ったヒラリー・クリントンに総得票数で約300万票も負け,就任以来,ほぼ不支持率支持率を上回り続けている,「多数派に否定され続けているアメリカ大統領」である。

それだけに,安倍政権トランプ当選から一貫して「幇間外交」「接待外交」とも言われる低姿勢外交を続けてきたことに違和感を拭えない者は多い。ネットでは連日,「アメポチ(飼い犬)」「属国」「51番目の州」など対米従属を象徴する自虐的な言葉が飛び交っている。

もちろん,日米の関係を考えれば,相手がどのような大統領であれ,ある程度良好な関係を築いておくべきだろう。問題はその「程度」にある。他の先進国に比べて,安倍政権トランプ政権に対する入れ込みようは明らかに異常であり,ほとんど「運命共同体」の様だ。これでは主体的にアメリカと付き合っているというより,アメリカに付き従っていると思われても仕方ない。

対米従属という問題意識は第二次世界大戦後からずっとあるものだが,日本人の議論は不思議なことに「従属に慣れる」か「無理をしてでも従属を脱するか」に分かれやすい。「アメリカのくびきの恥辱に耐えてそれを脱するように現実的な努力をしよう」と言える者が少ない。これこそ正真正銘・完全無欠の「愛国心」であるはずだが,愛国心を唱える保守層ほどなぜか飼い馴らされた奴隷のようにアメリカに対してだけは従順だ。

私はその本物の「愛国心」を持つ少数派の一人だ。いま希哲館ではデルンを中核とした知識産業革命の準備を進めている。これは日本を世界史上最大の極大国ハイパーパワー)にしようという「ジパング計画」を可能にする。

令和日本対米従属を続けるしかない「弱い日本」でいいと言うなら,希哲日本アメリカをも圧倒する「強い日本」を目指す。奇しくも,今回のトランプ訪日は両者の性格の差を象徴する出来事になりそうだ。

{希哲13年5月26日}{希哲13年5月26日のツイスト}{ツイスト}{対米従属}{愛国心}{日本}(6)

{あれ K#F85E/5B28-FF6B}

まあ,日本の現実として対米従属に耐えることと,対米従属からの脱却に向けて努力することは両立するし,両立させてこそ偽りのない愛国心というものだと思うのだが,情けないのは,現状に疑問を持たない人と現実を無視して対米従属を批判する人ばかりだということ。

{パトリオティズム}{社会}{愛国心}{公開}{日本人}(5)

{駄目な国でも愛せるのが愛国心 K#F85E/E8CA-9A84}

現代日本において,「愛国」は若干気持ち悪いものだと思われている。確かに,例えばアメリカ人のいう「パトリオティズム(patriotism)とは何かが違う。これを戦後教育の弊害,などと片付けるのはたやすいが,はたしてそれだけだろうか。

一般に,日本社会でおおっぴらに愛国心を表明することは憚られているため,近年ではインターネットでその手の発言をする者が多く,その中でも極端な者はやや侮蔑的に「ネット右翼」などと呼ばれている。

いわゆる「ネット右翼」的な発言を眺めていると気付くことがある。彼らは,日本をとにかく賛美する。ときに妄想的なほど賛美する。さらに,少しでも批判的なことを言われたりすると,感情的に排撃しようとする傾向がある。彼らにとって日本は,世界で一番偉大で美しい国でなくてはならないようだ。そのような日本を彼らは愛しており,その日本人であることに誇りをもっているようだ。裏を返せば,「駄目な日本」を愛せないわけだ。

私自身も日本を愛していると思うが,彼らの表現には違和感を覚えることが多い。私は,日本がどんなに駄目な国であろうと,日本を捨てるつもりはない。日本列島が荒廃して無人島のようになろうと,私は最後まで居座り復興に尽力したい。それを殊更「愛」と表現する必要すら感じないが,だからこそ,日本がどれだけ偉大か,などという議論で時間を潰している人々に強い不信感を抱く。そんなことは,ありのままの日本を無条件に愛している人間にとってはどうでもいいことなのだ。

そもそも,日本を愛しているという割に,日本史日本文化に対する理解が浅すぎたり,日本語すらまともに使えていない者が多すぎる。要するに,彼らにとって「愛国」とは何ら労せず,手軽に自尊心を得られる宗教なのだと思う。なかば妄想で作り上げた「素晴しき日本」に耽溺するばかりで,その日本に貢献しようという努力の跡がほぼ見られない。

つまり,国家に対する参加者としての意識の稀薄さが,日本人の「愛国」を悪い意味で宗教的なものにしてしまっているのではないかと思う。以前,私は「愛国心と興国心」として,精神的なよりどころを国家に求めるための「愛国心」よりも,自ら国家を担おうとする「興国心」を重視すべきだと論じたことがあるが,実はその「愛」が偽物ということの方が根本的な問題だったのかもしれない。

{興国心}{愛国心}{時記}{学問}{公開}(5)

{愛国心と興国心 K#F85E/1BC3}

日本人はよく,「愛国心がない」国民だと言われる。これは凄まじい愛国教育を行った戦前の反動で,戦後教育が愛国心を強く抑制してきたことと,表向き愛国心を捨てても揺るがない国民統合の基礎が,戦前にほぼ完成していたことによる。しかし,近年この状況が変わりつつある。

原因としては,愛国心を忘れるほどの独走的な経済発展が終わり,新しい心のよりどころを求めるようになったことや,国際常識というものが強く意識されるようになり,戦後日本の自虐史観が世界的に極めて異常であることに多くの国民が気付いたこと,また成熟した豊かさを背景に自国文化を見直すゆとりが出来たことなどが挙げられるだろう。

もっとも,日本がここまで国際的な信頼を得ているのは,自虐的な戦後教育の功でもあることを考えれば,いわゆる右傾化を単に「正常化」とみなすことの危うさもある。その「正常化」で失うものもあることは考えておく必要がある。

ところで私は以前,これからの世界に必要なのは愛国心(patriotism)ではなく「興国心(heroism)なのではないか,と考えたことがあったのを思い出す。

愛国心というのは,国家への帰属意識を高めることで安心感・一体感を得ようとする心情だ。そこには確かに集団主義という側面があり,過去の反省を踏まえればなかなかその先に素晴しい未来があるとも思えない。かといって,単なる個人主義の限界も明らかだ。人間は民族の歴史から自由ではありえず,国土を踏まずに生きてもいけないのだから,国家をないがしろにして個人を偏重するということが,結局のところ主体性・自律性の喪失になるというジレンマがある。

国家に埋もれるのではなく,国家から逃げるのでもない。ならば進んで国家の担い手となる道しかない。これが私の興国心,興国主義だ。相対主義を超えた正対主義の実践であり,「創造する集団主義」とも「逃げない個人主義」ともいえる。ちなみに,むかし夏目漱石もこれに近い考え方を表明していた『私の個人主義』

愛国心と興国心を見分けるには,いまある国家の姿に誇りを持とうとしているか,これから誇りある国家を創ろうとしているか,を見極めればいい。愛国者(patriot)は「私の国は素晴らしい」というが,興国者(heroist)は「私が素晴らしい国にする」という。愛国者は孤立と困難を恐れるが,興国者はむしろそれを喜ぶ。より大きな難題に挑み,自ら興国の立役者になりたいからだ。

日本人の一人一人が愛国心を超えて興国心を身に付けることが出来たとしたら,こんなに末恐しい国民はないと思う。戦前とはまったく違う意味で,世界を驚かすことが出来るだろう。

{綜道尾派}{愛国心}{広告付き}{素描}(4)
{愛国心}

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