この一日一文という日課を再開してから改めて強く感じることは,私にとって最大の関心事は私自身だということだ。
確かに,釈迦,孔子,ソクラテス,キリスト……その他高名な歴史上の思想家達の思想や生涯よりも,自分自身が体験した「閃き」の方が私には気になる。あの閃きの起源と真の可能性を探究することが生涯の仕事になるのだろうと思う。
10代の頃から世界中の思想について情報収集してきたが,ほとんど自分自身の体験だけを元にここまで思想を展開し,独自の技術まで開発している人間なんて他には思いつかない。「独創的」という日本語は賞賛に近い響きを持っているので自分で言うのはすこし憚られるが,「世界で最も独自的な思想家」くらいのことは言っても許されるだろう。
もっとも,“独自性”というのもここまで来ると実際病気に近いものがあり,一概に褒められたものではない。この独自性のせいで自殺を考えるほど悩んだこともあるし,この独自性から生み出したデライトはその独自性ゆえに苦労しているわけだ。私が希哲館事業を「精神の癌」と呼んできた所以だ。
それでも,私がこの極端なまでの独自性に希望を見出しているのは,しばしば「独自性の欠乏」を指摘される日本で,閉塞感の突破口を一つでも多く作りたい,という思いがあるからだ。
日本は紛れもなく“個性的な”国だ。外国人は,お世辞もあるだろうが「日本人はユニークだ」などと言ってくれる。ただ,日本人自身は,その個性の大半が,個人によるものではなく,みんなで同じことをやっていたら世界的には珍奇なことになっていた,という類のものであることを知っている。ガラパゴスというやつだ。
思想・哲学の分野で昔からありがちな日本人批判に,外国の思想や思想家についての研究者は多いが,独自の思想を持つ日本人がほとんどいない,というものがある。日本人がやっているのは「哲学」ではなく「哲学学」に過ぎないのではないか,というわけだ。
これはいまだに重い問いだと思う。「日本の個性的な思想家」というと,武士道やら禅やら外国人の東洋趣味に訴えるような人であったり,サブカルのような「隙間」で活躍する人ばかりが思い浮かぶ。世界史のど真ん中で,例えば,ルソーやカント,マルクスなどと肩を並べられる日本人思想家が一人でもいるか,という話なのだ。
私は,10代の頃から哲学と情報技術の両方に関心を持っていたので,日本の情技(IT)業界にも同じような「日本病」があることに,割と早く気付いた。