{重苦しくなる}{気分が晴れなかった}{掴めた}{十分な睡眠を取る}{短くなっていた}{心理的負担}{誤らせる}{百害あって一利なし}{過度な緊張感}{一番苦しい}...=}(85)

{希哲15年9月12日の日記 K#F85E/A-E74C-69BB}

今週に入り,ますます状況良くなる一方……なはずなのに,妙に気分が晴れなかった理由について考えていた

やはり,デライトの早期成功,引いては希哲館事業の成功もはや夢ではない,というのがかえって重いのだろう。希哲館事業は「人類史上最大の事業構想」なのだから,営利事業として成功することなど歴史的偉業であって,そう簡単に行くわけがない……そんな言い訳開き直りももう出来ない。思えば気楽なものだった。

いまの希哲館事業は,努力次第で十分経営的軌道に乗る状態だ。それが出来ていないということは努力不足だということだ。最近,デライト運営状況に対する自分の見方厳しくなっているし,あれもこれもしなければと気持ちが逸り,それに追い付いていないことに,これまで感じたことのないような焦り悔しさ込み上げてくる

希哲館事業が負っている社会的責任のようなこともよく考えるようになった。これまで全くと言っていいほど利益を生み出さなかった事業にこれだけの時間注ぎ込んでこれたには,身内はもちろん,間接的にも社会にかけてきた多大負担迷惑がある。その歴史も,元を辿れば,かれこれ四半世紀になる。希哲館事業の成功以外では返せない借りだ。

そんなことを考えていれば,否が応でも気分重苦しくなるし,無意識のうちにも自分を追い込みがちになる。ここからデライト収益目標達成までが一番苦しい過渡期なのかもしれない。

ただ,過度な緊張感百害あって一利なしだ。無駄な心理的負担能率が落ち,判断誤らせる。ここからは休息もしっかり取り,意識的心身利楽させることにした。この状況適度な緊張感保つにはそれくらいで丁度良いだろう。睡眠時間平均的短くなっていたため,まずは十分な睡眠を取ることから意識していく。

なんにせよ,得体の知れない感情正体掴めたことは大きな収穫だった。

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{Android}{iPhone}{一日一文}{170年}{世界に類をみない}{知らしめる}{一億総知能増幅}{希哲15年6月の一日一文}{一選万集}{考え尽くす}...=}(569)

{日本はどう逆転するか K#F85E/A-E74C-3C71}

昨日の一日一文では高度経済成長期以後の日本の盛衰について分析してみたが,今日は,そんな日本がどうやって中国抜き返し,アメリカをも凌ぐ世界史上最大の極大国ハイパーパワーとなりうるのかについて書いてみよう。

アメリカ脱工業化成功繁栄を極め日本工業しがみつ凋落した……物語はここで終わったわけではない。ジパング計画という“新しい物語”が始まるのはここからだ。

あての無い家出

私は,これまでの世界で起きた脱工業化という現象を「あての無い家出」と表現したことがある。とりあえず工業中心から脱してはみたものの,落ち着ける先が見えていないからだ。脱工業化は世界にとって時期尚早だったかもしれない,という雰囲気は実際に広がりつつある。

それを象徴するような二つの出来事が同じ2016年に起きた。イギリスにおけるブレグジット決定,アメリカ大統領選挙におけるドナルド・トランプ当選だ。私はこれらに象徴される英米政治混迷を「英米政治危機」と呼んできた。

そしてその背景にあったのが,情技(IT)産業をはじめとする知識産業隆盛に伴う工業の衰退格差拡大国民分断だった。世界経済と脱工業化の先頭を走っていたアメリカ,そのアメリカを生み出したかつての超大国であるイギリスが同時に似たような危機に陥ったことは偶然ではないだろう。

産業革命から近現代牽引してきた両国の産業構造はもちろん,政治文化にも通底する何かの限界が,ここに来て露呈したのだ。

トランプ政権下のアメリカでは,まさに脱工業化の煽りを受けたラスト・ベルトに支持され“再工業化”の動きすら見られた。それは,あてのない家出から“出戻り”してきた少年少女のような,心細いアメリカの姿だった。

近代と工業,そして新近代化

一般に,国民国家間接民主主義資本主義といった現代社会標準的体制形作られた18世紀頃から20世紀頃までの時代を「近代」という。

そして我々はいま,第二次世界大戦などの大きな画期を経て,様々な揺らぎの中で「現代」にいる。現代がどういう時代だったのかは次の時代になってみなければ分からないが,近代については振り返ってある程度概観することが出来る。

この近代化推進力となったのはイギリス産業革命だ。ここから世界工業化も始まった。工業化も含めて様々な要素が互いに影響を与え,支え合いながら近代社会は形成されてきた。脱工業化でいうところの工業というのは,独立して取ったり付けたり出来るものではない。

特に重要なのは,工業というものが実質的社会保障として機能していた,という点だ。つまり,額に汗して働けば,誰でもそれなりに豊かな生活社会参加実感手に入れられる,という期待が,近代国家大衆を繋ぎ止めていたのだ。

いま工業に取って代わろうとしている知識産業には,高度な教育を受けた選り人エリート高度な技能を持った一握りの人々に富が集中する性質がある。GAFAM に代表的な日本企業が何千と束になっても勝てないように,その他大勢がどう頑張っても埋められない差が出来てしまう。

こうなれば,“置き去りにされた大衆”の少なくない部分が,当然のように民主主義における権利行使して“反乱”を起こすことになる。まさにそういう現象トランプ政権だった。

世界史の講義のような話になってしまったが,それだけ脱工業化が持つ歴史的文脈は長く複雑だ。脱工業化は,突き詰めれば「脱近代化」であり,新しい産業を中心に社会全体の仕組みを刷新する新近代の創造,すなわち「新近代化」であるということになる。これに成功した国は一つもない。ならば,先走った国々がつまずいている内に,日本でやってしまおう,というのが私が語っていることだ。

ジパング計画とは,工業時代,引いては近現代からの周到な“家出計画“なのだ。

真のポストモダニズム

脱近代化という考え方そのものは,昔,「ポストモダニズム」などといって思想界流行したことがあった。これも今思えば“あてのない家出”で,近代をあの手この手で相対化してみせるばかりで,その先を語れる者がいなかった。

結局,先行した思想限界でもあったのだろうと思う。世界混迷に陥っていても,達観ぶった“思想家”達は現状追認以上のことが出来なかった。私が現代思想批判してきた理由だ。

こんなことを言うと,少なからず,何も出来なくて何が悪い,世界のあり方についての言説なんて虚構だ,とイマドキ思想家現代思想かぶれ達には言われることだろう。

私はこう言い返す。出来なくて悪いこともなければ,出来て悪いこともないだろう。やらなくて悪いこともなければ,やって悪いこともないだろう。では虚構であることの何が悪いのか。新近代の創造,そこまでの虚構なら立派演待エンタメというものではないか。そんな面白いことが目の前にあってやってみない方が「現代風の考え方」という固定観念にとらわれているのだ。あなたがたは,知の不可能性に屈していたに過ぎない,と。

いま世界に必要なのは,新しい知の可能性を示し,この壮大な“演劇”を演じ切ることが出来る人間だ。

なぜ日本なのか

新近代化はいいとして,なぜ日本なのか,というのは先日の一日一文でも主題にしたが,その時は個人的心情を書くに留めた。私は,日本生まれ日本育ちの日本人だ。まず日本のことを考えるのに理由はいらない。

しかし,世界見渡し,日本だけではなく世界のためを考えた時,新近代化を起こすのが日本でなければならない理由がある。

まず,日本は現在,「自由民主主義」を標榜する先進国の中で,最も政治的安定性を保っている国だ。それも,落ちたとはいえまだ世界第3位の経済大国としてだ。これは驚くべきことだろう。

自由民主主義というのは,アメリカ筆頭にしたいわゆる「先進国」の体制だ。ざっくり言ってしまえば,かつてのソビエト連邦や今の中国と異なり,経済的にも政治的にも自由最大化しようとする体制のことだ。冷戦時代は「西側諸国」などとも呼ばれていた。

いま,この自由民主主義危機に瀕している。“自由な経済活動”が知識産業による脱工業化に赴く一方で,“自由な政治活動”は大衆反知性主義煽る政治家を生み出す。この不調和こそ現代政治最大の課題と言っても過言ではない。なぜなら,この問題に対する「独裁」以上の解決手段がまだ知られていないからだ。

言うまでもなく,この問題を反民主的強権体制で押さえ込み,ハイテク国家として日本を飛び越え,アメリカ猛追しているのが中国だ。中国の一応の成功は,冷戦を乗り越えた“西側”の自信を大きく揺さぶっている。

かつてアメリカと世界を二分していたソビエト連邦崩壊したのは,結局のところ資本主義民主主義が相対的に成功していたからだ。「自由でも国は上手く行く」ということが実証され続けていれば,独裁国家はその正当性を緩やかに失っていく。

反対に,「自由は国を分断する」と思われてしまえば,独裁国家は現体制を国民のためだと正当化することが出来る。特に英米政治危機以後,混迷する欧米の政治は独裁国家の権威を高めてしまっている。そればかりか,アメリカのような国にも独裁志向大統領を生み出してしまった。独裁者は外からも内からもやってくるのだ。

さて,ここで日本に再び目を移してみれば,「旧態依然とした衰退途上国」と評されがちな今の日本が,実は非常な好位置に付けていることが分かる。アメリカが持たない安定中国が持たない自由を辛うじて保っている国,それが日本だ。

つまり,日本には,分断を伴わない脱工業化,引いては脱近代化新近代化を実現出来る可能性が残されている。これこそ,「自由民主主義における最後の砦」として私が日本を重視し,ジパング計画推し進める理由だ。

歴史はそれが可能だと言う

とんでもないことを言っているように聞こえるかもしれない。しかし,驚異的速度近代化を成し遂げた明治維新自由民主主義を志向しながら成長平等を高い水準で両立させ,「最も成功した社会主義国」などと呼ばれてきた戦後……歴史を振り返れば,日本は,それに近い“とんでもないこと”を実現してきた国でもあるのだ。

日本人がいま仰ぎ見ているアメリカは,元はといえばイギリスの小さな植民地に過ぎなかった。そのイギリスも,大航海時代まではヨーロッパの辺境の島国に過ぎなかった。どこかの国に似ているとは思わないだろうか。実際,イギリスは産業革命まで江戸時代の日本と比べてもそう大きな国ではなかった。英語は,そんな彼らが世界中に広めた,彼らの母語なのだ。

そもそもヨーロッパ自体,近代化世界進出成功したから世界史の中心にいるような気がするだけで,それ以前の世界経済重心中国インドをはじめとするアジアにあった。

ルネサンスの三大発明」とされる火薬羅針盤活版印刷術起源が全て古代中国にあり,仏教など古代インド思想19世紀以後の西洋思想に大きな影響を与えたように,文化的にも決して遅れていたわけではない。中国もインドも「新興国」などと不名誉な呼ばれ方をしてきたが,本来は「再興国」とでも呼ぶべきなのだろう。

歴史を学んで分かることは,未来は常に創造的であり,決まったことなどないということだ。誰もが想像するように日本がこのまま衰退を続け,英語を学んで出稼ぎに行くのが当たり前の国になるか,それとも,米中を凌ぐ極大国ハイパーパワーとなり,日本語を世界中に広め,名実ともに世界の中心になるか,全ては日本人創造力次第だ。

一つ,日本人にとってこれまでと大きな違いがあるとすれば,今度は“先生”がいないということだ。誰かの後を追うのではなく,日本人自ら,かつて誰も踏み込んだことのない領域で,先頭を切ってらなければならない。現代政治最大の課題の前に,この日本最大の課題立ちはだかっている。

日本には何が足りなかったのか

いまの日本は決して悪い状況にあるわけではない。むしろ,「米中凌駕」を狙うには最高の環境にいる。そう見えるか,ただの衰退途上国に見えるかは紙一重だ。一見,今の日本にそこまでの成長力は無さそうだ。知識産業において成長力を生み出す「独創性」が無かったからだ。

この話は,「自分自身についての研究」という題で書いた独自性についての話から繋がっている。あの話を書き始めてすぐ,私の脳裏ではここまでのことが広がっていた。これに収拾を付けるために書いてきたのが一連の文章だ。

独創性というのは,奇を衒って人の注目を集めることではない。その程度のことが得意日本人はたくさんいる。世界が抱えている課題を,誰も知らなかったやり方,誰も出来なかったやり方で解決することだ。これが日本人には難しかった

日本人は「一人」がとても苦手だ。常に,似た誰かと一緒に動きたがる。「赤信号みんなで渡れば怖くない」というやつで,みんなと一緒なら大胆にもなれる。人の注目を集めるために変わったことをするのが得意な人も多い。要は「みんなでわいわい」しているのが大好きなのだ。

ところが,独創というのは,文字通りほとんど孤独な作業だ。独創的であるということは,人のたくさんいる街明かりから離れて,一人で真っ暗闇飛び込み,何か価値あるものを持って帰ってくるようなことだ。死ぬまで誰も認めてくれないかもしれない,誰も理解してくれないかもしれない,道なき道へ歩み出す。これが自分達にとっていかに困難なことかは,日本人自身がよく知っている。

これまでは,外国人が最初にやったことをみんなで真似していればよかった。これからは,日本人自らが未開の領域に踏み出さなければならない。しかし,誰から行くのか。誰もが周りを見て,後から付いていっても安全そうな流れが出来るのを待っている。だから誰も飛び出せない。これが日本の状況だった。「日本最大の課題」と呼んだが,大和民族における数千年来の民族性にまで遡る問題かもしれない。

もちろん,個々人の性格能力だけの問題ではないだろう。「世界金融危機は日本人の何を変えたのか」でも似たようなことを書いたが,疲弊した今の日本社会には,個人が自由好きなこと追求出来るゆとりは無いに等しい。かといって,一か八か打って出るしかないほど追い詰められているわけでもない。ちょうど,“無難正義”になってしまうような宙ぶらりん状況にある。

では一体,日本人はどうすればいいのか,と思うだろうか。別に,どうもしなくていいのだ。わざとらしく過去形強調したが,外国人の後を付いていくばかりの日本人像は,すでに過去のものとなった。希哲館事業が過去のものにしたのだ。

ジパング計画を含む希哲館事業は,私がほとんど自身の体験のみに基いた思想発明で始めた「世界初新近代化事業」だ。どのような哲学で,どのような世界目指し,どう実践していくのか,その全てを,独自体系化している。規模密度といい実践の水準といい,このような事業は世界に類を見ない。

そして,私も希哲館事業も日本生まれ日本育ちだ。不思議なことに,私は外国人先祖を知らない,いわゆる純日本人だ。日本から出たこともほとんどない。

これはつまりどういうことか。日本には,かつてアメリカを脅かすほどの団結力勤勉さを持った一億日本人と,アメリカ人にもいないような自由大胆な日本人が共存しているということだ。

手前味噌もいいところな結論だが,日本には希哲館事業が足りなかった。そして今,日本には希哲館事業がある。はすでに全て揃っているわけだ。あとはそれに気付く気付かないかの問題だ。

日本人は変わろうとしなくていい

日本人は云々,という巷の日本人論は,やたら欧米人礼賛して日本人してみたり,そうかと思えば,空想的に日本人を美化してみたり,いずれにせよ現実離れしたものが多い。論者世界観分断し,んでいるということなのだろう。

日本はなぜ繁栄し,なぜ衰退したのか」で書いた通り,私は,個人の性格であれ国民性民族性であれ,全てにおいて良い性格も全てにおいて悪い性格もないと思っている。

日本は,スティーブ・ジョブズのような史上最大級革新者を生み出せなかったが,ドナルド・トランプのような史上最大級嫌われ者を生み出すこともなかった。両者は性格においてそう遠くない。良くも悪くも平然我が道を行ける性格なのだ。

歴史上数々の大冒険成功させてきた欧米コロナ禍夥しい犠牲者を出す一方,日本行政迷走にもかかわらず感染拡大を抑えられていたのは,綺麗好き協調的慎重日本人の性格によるところが大きいと言われる。“臆病さ”も場面が変われば“慎重さ”になる良い例だ。

特に日本人のように自尊心が低く自己評価が極端に振れがちな集団にとって重要なことは,自分達の長所短所持っているもの持っていないものを偏りなく正しく知ることだ。外国の一面を真似て変わろうとしなくていいし,いまさら中途半端な外国かぶれになってどうにかなる状況でもない。自分達についてよく知れば,考えることやることも自ずと良い方に変わってくる。

自分がであることにも,近くに金棒が落ちていることにも気付いていない──私の目には,いまの日本人がそんな鬼のように映っている。自分のを知り,自分の武器に気付きさえすれば,まさに「鬼に金棒」だというのに。

一選万集元気玉

さあ,世界日本がいまどういう状況にあり,日本人はどこをどう目指すべきなのか,外堀を埋めるように語ってきたが,そろそろ本丸攻め方について具体的考えてみよう。

結論から言えば,日本飛躍を目指すのであれば,国全体で,基幹産業へのいわゆる「選択と集中」を徹底せざるをえない。その戦略において最大の問題は,新しい日本の基幹産業として何を選択するかだ。そして,選択すべきは知能増幅(IA)以外にない。

まず,集団としての日本人特性人口規模を考えた時,アメリカ型起業大国を目指すべきというのは経営戦略として下策と言わざるをえない。

アメリカは,日本よりずっと多様な人々が日本の倍を越える人口でいる国だ。多様性はともかく,中国の人口にいたっては日本の十倍を越えている。これに加え彼我の国民性の差を考えれば,鉄砲玉の数で勝負するような起業に向かわせるのは日本人無駄遣いだ。それで出来るのはせいぜいアメリカもどき,「米中凌駕」など到底叶わない。

日本人はばらけた時よりも固まった時に強い。この日本人の特性をどう活かすかと考えれば,選択と集中に向かわざるをえない。それも,米中を圧倒する極大国を目指すのだから中途半端ではいけない。日本の全てを一点に集中するような,「一選万集」とでも呼ぶべき究極集中戦略が必要だ。

80年代以後に漫画を読んで育った世代には,「元気玉方式」というのが一番分かりやすいかもしれない。

選択と集中は本質的に「賭け」だ。近年,この戦略批判的に捉える論調も目立つようになったが,多くの場合はここを誤解しているのではないかと思う。日本人はその賭けが苦手で,保険をかけることに多くの経営資源を費やしてきた。だから冒険をしなくてはいけないと言っている時に,怪我したからやっぱりやめよう,というのでは何も変わらない。

選択と集中における失敗とは,「集中の失敗」ではなく「選択の失敗」だ。失敗したから集中をやめようというのが日本人なら,別のものを選択してまた挑戦してみようというのがアメリカ人なのだ。

当然,「元気玉方式」では全てをかけるのだから,万が一にも外せない。逆に言えば,万が一にも外さないことなら全てをかけてもいいはずだ。いっそのこと,そこまで突き詰めてしまった方が日本人は乗りやすいかもしれない。

何を選択するか

ここまで来れば,問題は一点に絞り込まれる日本の全てをかけてもいい基幹産業として何を選択するべきかだ。

内閣府ムーンショット型研究開発制度では,人工知能をはじめとする,いまや世界中猫も杓子も語っているような路線で「破壊的イノベーション」が語られている。残念ながら,すでに米中桁違い投資先行する分野後追い以上のものにはなっていない。もっとも,民主主義における政府の役割は,みんなの意見集約することであって,誰も理解出来ないようなことを勝手にやり始めたら独裁だ。それはそれで仕方ない。

これは日本人にとって極めて難しい問題だったが,私は,何の迷いもなく,「知能増幅(IA: intelligence amplificationだと即答出来る。知識産業にとって最も根源的役割を持ち,まだ十分に知られていない未開の領域で,日本人である私が「世界初の実用的な知能増幅技術」(デライト)を完全に保有しているからだ。

このような話になると,日本が誇るゲームアニメ漫画があるじゃないか,という人も多い。もちろん,これらも素晴らしい日本の文化で,重要な産業ではあるが,基幹産業というには心許無い

馬鹿にしているわけではない。例えば,日本製のゲーム作品なんて,ほとんど人間業の限界といっていいくらい洗練されていると思う。長年,世界中人気もある。では,任天堂をはじめ日本のゲーム会社がどれだけの規模成長しているのかというと,その偉業の割に目を疑うほど小さい。これ以上頑張りようがある気がしないのだ。

これには少し個人的心当たりもある。私は80年代生まれで,人並みにゲームアニメ漫画に囲まれて育ってきた。ただ,大人になってからはこれらの分野にほとんどを使っていない。時間が無いからだ。それで困るかというと別に困ってもいない。つまり,後回しにされがちな分野だ。

GAFAMGoogleAmazonFacebookAppleMicrosoftというのは,いわば“新しい生活必需品“を作っている企業だ。ゲームが出来なくても私は困らないが,Google 検索Amazon が使えなくなれば困る。支配力という点ではやはり比較にならない。

日本にはスティーブ・ジョブズのような起業家がいない」という話になると,例えば,「日本には任天堂の故・岩田聡氏がいるじゃないか」というような反論の仕方をする人がいる。感情としてはよく分かる。岩田氏に限らず,日本には各界にそれぞれ素晴らしい経営者技術者がいる。一概に優劣を付けることは出来ない。

そんなことは大前提とした上で,なぜこういう話でジョブズやゲイツが引き合いに出されるのかといえば,世界経済牽引するアメリカ代表する企業を創った人々だからだ。その文脈として,日本経済長期停滞がある。その意味で,やはり彼らに比肩する日本人はまだいない,というのが現実だ。

もう一つ,日本人がやりがちな議論として,「GAFAM もジョブズもゲイツもアメリカでしか生まれていないのだから,日本だけを問題にするのはおかしい」というものがある。一見もっともらしいが,これもよく考えるといい加減な理屈で,かつてアメリカとしのぎを削った日本で情技産業が育たなかったという話と,例えばアフリカ発展途上国で情技産業が育たなかったという話は同列に語れない。

日本人言葉遊びで気を紛らわしている内にも,中国GAFAM肉薄する企業を作っている。私はやはり,日本人にはこの問題に真正面から挑戦する強さを持ってほしいと思う。

黒船返し」は知能増幅

こんなことを散々考え尽くし,私が辿り着いたのが知能増幅という分野だ。人間知能技術的増幅しようというもので,昔から学術的には認知されているが,人工知能とは世間的な認知度話題性市場規模において雲泥の差がある。

その大きな理由として,実用化の見込みが全くないということがあった。例えば,チップを埋め込むとか,遺伝子を弄るとか,そういう SF じみた空想から何十年ものあいだ抜け出せていなかった。これでは,技術的にどうというより,やりたがる人を見つけるのが難しいだろう。

私は,この知能増幅と,いま NotionRoam Research といったサービス注目されつつあるメモサービスを結び付け,「知能増幅メモサービス」という形で触れる知能増幅技術開発した。それがこのデライトだ。

知能増幅技術は,人工知能も含めて,人間の知性が生み出すあらゆる産物寄与するという意味で,知識産業における最も根源的機関エンジンといえる。これを利用して日本で「知識産業革命」を興し,新近代化推進力にしようというのがジパング計画だ。

そしてこれは,人間知的生命体である限り,半永久的意義が失なわれることのない技術だ。日本人の粘り強さを活かすにはもってこいだろう。「日本の全てをかけてもいい基幹産業」として,私が想像しうる最大限現実解だ。

私はたまに,「自分が GAFAM の完全な経営権を与えられたらどうするか」という思考実験をしてみることがある。結論はいつも変わらない。「全ての事業を売り払ってでも知能増幅技術開発注ぎ込む」だ。WindowsMaciPhoneGoogle 検索AndroidYouTubeAmazonFacebook……これまでのあらゆる情技製品よりも知能増幅技術に可能性を感じるからだ。

またとんでもないことを言っているようだが,これが米中凌駕実現するような革新的技術具体的想像するということなのだと思う。

日本人近代化とは何かを知らしめアメリカ黒船来航からおよそ170年,いまこそ,世界に類をみない一億総知能増幅」の新近代国家で「黒船返し」をする時なのだ。

{一日一文}{希哲15年6月の一日一文}{SNS 嫌い}{社交辞令}{社会的行為}{腑に落ちた}{最高の誉め言葉}{容姿が良い}{喧嘩が強い}{学校の勉強}...=}(113)

{誉められて嬉しかったこと K#F85E/A-E74C-5C5B}

私には,誉められ嬉しいと思った記憶がほとんど無い。誉められるのは,どちらかといえば苦手なくらいだ。先日の一日一文では私の独特な金銭欲について書いたが,これは私の独特な名誉欲かもしれない。

なぜ誉められても嬉しくないのかと考えてみると,そもそも幼い頃に自尊心完成されてしまっていた気がする。自尊心に欠けているところが無いので,いわゆる承認欲求的な感情も無い。

誉め言葉をもらっても,すでに満杯に余計なものを注がれているような感覚で,こぼれたのを拭くのが面倒になる。それが社会的行為である以上,例えば,謙遜して見せなければならないとか,こちらも社交辞令で返さなければならないとか,新しく得たものも無いのに“対応”を求められるわけだ。

私の SNS 嫌いもこんなところから来ている気がする。好意的反応をもらうことはもちろん「ありがたい」と思うし,仕事であれば必要なことでもあるが,個人的心情としては嬉しさより面倒臭さを感じてしまうことが多い。

誉められて嬉しくないのだから,貶され悲しいこともない。むしろ,他人が顔をしかめるようなことをしていた方が,自由を感じることが出来て面白いとすら思っていた。

子供の頃からこんな性格だが,大人になってからも,名誉ある地位に就きたいとか,ナントカが欲しいとか,テレビネット有名になりたいとか,そういう感情を抱いたことが無い。

日ごろ私の活動を見ている人なら納得出来るのではないかと思う。希哲館事業は,誰の肯定神託必要とせずに自分のやることに絶対確信を頂き,この上ない充実感を得て生きる人間がここにいる証拠なのだ。

私には,自分で作った「初代希哲館執務長」が,どこの国の君主首脳肩書きよりも,ノーベル賞よりも名誉に感じられる。だからこれ以上の名誉は一切不要だ。

これも病気といえばそうかもしれないが,SNS などの発達で,名誉欲承認欲求に人生を狂わされる者が無数にいることを考えると,「健全」とは何か,考えずにはいられない。


そんな私にも,人生で一つだけ,誉められて嬉しかったことがある。

恐らく4歳5歳頃だ。保育園で,はさみを使って工作のようなことをしていた。何か工夫をして,上手いこと出来たな,と思った時,保母さんが「ひろくんはアイデアマンだね」と言った。この時のことがなぜかずっと,鮮明記憶としてある。そして定期的に思い出す

当時の私に「アイデアマン」という言葉の意味が分かったとも思えないが,自分は何か工夫をすることが得意なんだな,ということくらいは体験として分かっただろう。もしかしたら,言葉が分からなかったから印象的だったのかもしれない。これもカセット効果という奴だろうか。

その後,私は,トーマス・エジソン憧れたり,信長でも家康でもなく秀吉好き少年に育っていく。子供ながら,発明とか発想価値を感じていたのだろう。

そして17歳の頃に輪郭法き,デルンデライト開発して今にいたる。確かに,これ以上価値あるものが今の私には想像出来ない。

頭が良いと誉められて学校の勉強を極めても,運動が出来ると誉められてスポーツの世界に行っても,容姿が良いと誉められて見た目を売りにするような世界に行っても,もちろん,喧嘩が強いと誉められてヤクザな道に入っても,今の私にはならなかっただろう。

私にとって最高の誉め言葉があるとすれば,やはり「アイデアマン」以外考えられない。この文章を書きながら,三十年来,心のどこかに引っかかっていたものがようやく腑に落ちた

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{一日一文}{希哲15年5月の一日一文}{社会奉仕}{清貧思想}{京円}{モテたい}{共感力}{時々思うこと}{気付いた}{閃き}...=}(80)

{人間への共感 K#F85E/A-E74C-BE3A}

私には,いわゆる「共感力」というものが無い。時々思うことだ。

普段書いていることを見ていれば何となく分かると思うが,私は,あまり多くの人と同じような生活をしていない。これは昨日今日始まったことではない。10代の初め頃からずっと,私はこんな調子で生きて来てしまった。

反共感としての KNS

思えば,私が KNS なんてものを発明したのも,この共感力の無さによるところが大きい。

私には,主にマイクロブログ系の SNS消極的に使っていた時期がいくつかあり,そういう時期に私を見かけた人なら分かるかもしれない。私の SNS の使い方は,基本的に独り言を延々と垂れ流す,というものだ。しかも,自分で考えた造語翻訳語をちりばめて,だ。

最初からこうだったわけではない。最初に SNS に接したのは20歳そこそこで,その頃は周囲に合わせようとしていた。ところが,使っているうちにある問題に気付いた。同じような年頃の人達が,自分とは全く違う生き方をしているということだ。

例えば当時,よく若者の間で盛り上がっていた話題といえば,就職氷河期下での就活だとか,日本社会への悲観論だったりした。

それが私には全く分からなかった。当時の私は,希哲館事業を始めばかりだった。ろくに学校にも行かず17歳輪郭法いた私は,定職につく気も無く,どうすれば世界史上最大の企業を創り,日本世界史上最大の極大国ハイパーパワーに出来るかということで頭が一杯だった。

「もう日本は駄目だ」「英語勉強して日本を出よう」などという悲観論が渦巻いていた SNS で,ただ一人,「これから自分が日本を世界の中心にする」と希望に満ち溢れていたのが当時の私で,要するにずっと変わっていないのだ。最初はそれがズレていることにも気付いていなかったと思うが,流石にだんだん周囲との空気の違いが分かってくる。

SNS というのは,多くの人にとっては仲間を見つけたり,共感しあったりする場なのだろうと思う。私にとっては,使えば使うほど,自分がいかに世界の中で孤立した精神の持ち主か,ということを思い知らされる場だった。単純に,あまり面白いものではなかった。

共感と商売

共感力の無さというのが現実的問題になるのは,やはり「商売」を考えた時だ。デライトも,多くの人に気に入ってもらい,そこから利益を生み出そうとしている,という意味では立派な商売だ。

ところが私には,人の欲望というのもあまりよく分かっていない。男性で言えば,金が欲しいとか,女性モテたいとか,そういうのが欲望の典型なのだろう。しかし,私はその手の感情を抱いたことがほぼ無い。

厳密に言えば,金が欲しいとは思う。ただそれは事業のためだ。希哲館事業理想実現するためには,「兆円」の単位では足りない。最低でも「京円」の金が動かせるようにしたい。そういうことはよく考える。

その一方で,私的な金銭欲には乏しい。希哲館事業を始めた当初から,私は自身も含めて全執務員給与報酬を「世の中の平均的な水準」にすることを決めている。つまり,どれだけ希哲社利益を上げようが,私は月に数十万円程度の金しか受け取らない。

別に我慢をしてそうするわけではない。それが清貧思想とか社会奉仕パフォーマンスなら,アメリカ企業がよくやるように1円の報酬でいい。私は別にそういう“思想”で金が要らないわけではない。本当に,人並程度の収入で十分満足に暮らしていけると思っているのだ。

しかし,商売をする上で,人の欲望の流れを感じることが出来ない,というのは致命的かもしれない,と思うこともある。金が欲しいという人の気持ちも,女性に囲まれて嬉しい人の気持ちも分からないのだから,少なくともそれで釣るような商売には全く向いていない。

人間そのものへの共感

ではどうすればいいのか。これまでの生き方はいまさら変えられない。

でも,私にも共感出来ることはある。それは,枝葉ではなくて,人間として誰もが持つ普遍的な部分への共感だ。例えば,人が転んでいるのを見れば痛そうだと思うし,泣いているのを見れば可哀そうだと思う。幸せそうにしていれば何となく嬉しい気持ちにもなる。

人間のどこかではなく,人間そのものへの共感を深めていく,そんなことに希望を見出したい。

{一日一文}{希哲15年5月の一日一文}{希哲15年5月11日の日記}{個人知識管理サービスの課題}{SNS の課題}{中核事業}{成功模体}{二大純インターネット企業}{産業全体}{純インターネット企業}...=}(105)

{KNS について K#F85E/A-E74C-0184}

昨日の一日一文では,デライトにおける対 Google 戦略一環とも言える「全知検索」について書いた。今日は,対 Facebook 戦略の一環「KNS(knowledge networking service)について少し書いてみたい。

と言っても,KNS 自体について説明することはそれほど多くない。Twitter のように日常的気軽投稿をしながら,投稿を柔軟関連付け保存したり,利用者同士で参照し合うことが出来る知的交流サービスのことだ。百聞は一見に如かずで,デライトを実際に見て回るのが一番早いだろう。


デライトの対 Notion 戦略」でも書いたように,デライト目先目標達成する上で最重要視しているのは対 Notion 戦略だが,それはあくまでも通過点に過ぎない。

私は,個人知識管理サービス検索演心エンジンSNS を越えるネットサービスになると考えている。しかし,現状,流行りNotion も,それに追われている業界最大手 Evernote も,産業全体の中では小さな存在だ。企業規模も,いわゆる GAFAM には遠く及ばない。

デライトの対 Notion 戦略というのは,そんな小さな世界飛び越えて,世界の頂点目指すための足掛かりなのだ。

GAFAM の中でとりわけ GoogleFacebook を重視するのは,この二社が世界の「二大純インターネット企業」だからだ。ネットサービスは,資金力ではるかに劣る日本企業アイデア一つで世界の頂点に挑戦出来る唯一の分野であり,この二社は乗り越えるべき成功模体モデルだと考えている。

(ちなみに,AppleAmazonMSインターネット活用する企業ではあるが,その中核事業がインターネットで完結するものではないため「純インターネット企業」とは言えない。なぜそこが重要なのかは上述の通り参入障壁問題による)

乗り越えるためには,明確武器必要になる。その一つが昨日簡単に説明した全知検索であり,もう一つが KNS というわけだ。


SNS の課題”という視点から見れば,情報瞬間的共有には向いているが蓄積に向かない,感情優先社会分断助長する性質がある,デマヘイトのような低質悪質情報氾濫しやすい……といった問題への解決策KNS は持っている。

また,“個人知識管理サービスの課題”という視点から見れば,ツイートのような知識材料となる情報を十分に拾えていない,という問題への解決策となる。

いま,Notion がどんなに流行っていようが,その話題知見はほとんど Twitter などで刹那的に流れていくだけ,という現状を,私はいつも「もったいない」と思いながら眺めている。日常のささやかな気付きは,知識極めて重要源泉だ。

それに気付いて,自分で適当なサービスにツイートを保存している人は昔からいるが,SNS の機能を組み込んだデライト以外の個人知識管理サービスというのは寡聞にして知らない。両者が調和するサービスの設計が意外に難しいのだ。

個人知識管理サービスに関する話題が主に SNS で共有されているうちは,まだ驚異的なサービスではないのだろう,と思う。“本命”は恐らく,SNS の機能すら取り込んでしまうだろう。私はこれを KNS と呼ぶ。

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{一日一文}{パチンコ玉}{}{すぐそこ}{三分の一}{一発当てる}{急ぎ過ぎ}{ひよっこ}{ネットサービスにおける「成功」とは何か}{計り知れない}...=}(72)

{デライトはなぜ成功を急ぐのか K#F85E/A-E74C-65CE}

昨日の一日一文でも書いた通り,ネットサービスとしてのデライトは,十分な収益が上がっていないという一点を除けば極めて良好状態にある。開発者としては,そう高くはない収益目標達成をもって一応「デライトの成功」だろうと思っている。

デライトは,昨年2月13日に「正式離立リリース」した。と言っても,あまりに品質上の問題が多かったため,しばらくの間,宣伝はほぼしなかった。積極的な宣伝をしていた期間は,これまで合わせて半年くらいだろうと思う。サービスとしてはまだひよっこだ。

勘報コンピューティング最重要かつ成功例の無い分野であることを考えると,成功急ぎ過ぎなのではないか,と思うことも無くはない。成功が数年後でも十年後でも,別に遅くはない。むしろ,じっくり育てた方が成功確度は上がるだろう。

私が単に一発当てたいだけのサービス開発者ならそれで良かった。しかし,私の目的は,デライトの成功ではなく「希哲館事業の成功」にある。

デライトが成功し,GAFAM を軽く越えるような世界史上最大の企業を作り上げてようやく三分の一進捗か,というほど希哲館事業構想は大きい。「人類史上最大の事業構想」は伊達ではない。その後にやらなければならないことの多さを考えれば,デライトの成功にてこずっているわけにはいかない。

もう一つ,個人的感情でいえば,これ以上周囲迷惑をかけたくない,ということがある。

画一的と言われる日本にあって,私がここまで好き勝手に他人と違うことが出来ているのは,他でもなく環境おかげだ。デライト自体はついこの間出来たようなサービスだが,その下地20年くらいかけて作ってきた。ここに来るまでに私がかけた周囲への負担迷惑計り知れない。流石にそろそろ償い恩返しもしたい。


開発者肌感覚として,デライトの成功は「すぐそこ」だ。しかし,これほど歯痒い時期もない。

一般的な感覚かどうか分からないが,子供のころのマラソン思い出すゴールがすぐそこだと思うと,心理的距離は長く,足は重く感じるようになる。ここまで来てまだあるのか,という感じだ。

もっと分かりにくく喩えるなら,私はいま,パチンコ」で勝利を目前にしたカイジ気分だ。デライト上にある無数の輪郭パチンコ玉に見えてくる。流し込み続ければ勝てる。そう分かってはいても,勝つまで解放されることはない。

{希哲15年4月の月記}{よく頑張った}{一年余り}{希哲15年4月4日}{デライト小理腑}{『希哲日記』}{愛着}{デライト}{切なさ}{歩み}...=}(15)
{自我アイコン設定機能実装}{お題目}{独自アイコン}{希哲15年2月4日}{閃き}{デライト公式}{デライトの成功}{感無量}{手定め}{『希哲日記』}...=}(62)

{希哲15年2月4日の日記 K#F85E/A-E74C-F900}

この頃,透明性についてよく考える。直接意識してきたわけではないが,結果的に私自身も希哲館事業も限りなく透明化しつつある。これも可知性ということか。

今日は開発快調で,自我アイコン設定機能実装区切り付けを終えた。本番環境でも手定めに自分とデライト公式独自アイコン設定してみた。それだけのことなのだが,妙に胸が熱くなり,感無量だった。

画竜点睛というべきかが入ったというべきか,小さなことのようで想像していたよりずっとデライト生き生きとして見える。

竜胆蛍がいかに私と希哲館精神象徴といっても,やはりどこか覆面をしているような感覚があった。

本当にのようになったデライトに映る自分を見ていると,ここまでのわがままを許してくれた周囲愛情幸運多大なことに感謝の念を抱かざるをえない。

最近,自分の境遇について考えさせられるような,ちょっとしたことが立て続けに起こっているせいで余計感傷的になっているのかもしれない。今こうしていられるのも,環境偶然のおかげだったんだな,と改めて実感させられることが多い。

もうデライトの成功なんか無くても,『パーフェクト・ワールド』のごとく明日のたれ死んでも贅沢なくらいじゃないかと思うくらい既に幸福な気がするが,これはやはり克服すべき自己中心性なのだろう。

閃き以来のこの自己中心性こそデライトをここまでの形にした創造性だった。しかし,それだけでは「奉仕」としてのサービス成立しない。この喜びdelight)を広く共有出来るものにしなければならない。そのためには,お題目ではなく心から思いやりが生じなければならない。

別に今初めて思ったことではないが,一つを越えた後で,自然にこういう感情が湧き出てくるということがデライトの成功にとっては希望だ。

{感情}
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