希哲館を中核機関とした新近代化事業。希哲元年(2007年),宇田川浩行が創始した。
日本初の工業化推進事業であった幕末の集成館事業に似ている。
今日も休めないかと思ったが,意外と良い感じに肩の力が抜け,最低限のまとめ作業だけしてゆっくり過ごせた。昼頃散髪に出かけ,帰ってから誕生日であることに気付いた。折角の誕生日くらいはと自分に言い聞かせて半休にしていた。
38歳という年齢には,思っていたほど感傷も感慨も無かった。強いて言えば,38歳という若さでよくここまで来られたと思う。これは希哲館事業の巨大さゆえの感情だろう。大事業にとって人生がどれだけ短いか散々思い知らされてきた。
若さというのは本当に相対的なものだなと最近よく思う。20歳くらいの若者がもう若くないなどと嘆いていると滑稽に思えるが,自分が10代や20歳そこそこだった頃も若さを満喫出来ていたかというと,そんな余裕は無かった。無力にもがき,幼さを憎み蔑んでいた。自分の若さを楽しめるようになったのは30代からだ。
老いへの恐怖は後悔と似ている。少なくとも,あの頃に戻ってやり直したいと思うことが無いのは幸せなことなのだろうし,これからもそういう最善の日々を生きたい。一昨日友人と話していてそれを再確認した。
デライトも公開から2年半ほど経ち,色々な人が興味を持ってくれたり,使ってみてくれたりした。遠くから眺めているだけの人,登録してみただけの人,たまに使う人,いつも使っている人……風変わりなデライトでも,出会った人の多様性は他のサービスとさして変わらない。
私は,そんな全ての“デライター”とデライターの卵達に深く感謝している。付き合いの長さも深さも関係ない。デライトに否定的な人ですら,知ってくれただけでありがたいと思う。
これがよくある社交辞令ではないということは,前回の一日一文,「デライトの歩み」を読めば分かるだろう。そもそも全く無謀な挑戦として始まったのがデライトだ。成功どころか,誰にも認められず終わるかもしれない。それならまだいい。弾圧や暗殺で命を失うかもしれない。10代の内にそこまで想像して葛藤を乗り越え,20年かけてここまで来た。
たとえるなら,デライトの歩みとは,真っ暗な巨大洞窟を一人で彷徨うようなものだった。どこかに新しい世界につながる出口がある。生きている内に辿り着けるかどうかは分からない。そんな洞窟を歩き続けていた時に見えた光,聞こえた人の声。それが私にとってのデライト利用者であり,デライトへの声だ。
そして今,デライトは「完全な成功」一歩手前と言えるところまで来ている。すでに夢のようなことだ。感謝せずにいられるだろうか。
今月に入ったあたりから,ぼんやり考え事をしてしまう時間が増え,進捗はそこまで悪くないものの,思うように集中力が高まらなかった。上手く言い表せないが,「迫り来る何か」に揺さぶられている感覚がずっとある。
まず考えられる原因は,1月の脳爆発の反動と疲労だ。1月だけで半年分の仕事はしてしまった感がある。その後の雑務が上手く片付いた解放感も手伝って,ちょっと気が抜けてしまったのかもしれない。そういう意味では,必要な休息でもあったのだろう。
もう一つは,新生デライト開発における「マラソン終盤効果」とでもいうべき心理だ。1月の脳爆発以降,予定になかった当努を多数挿入してしまったとはいえ,それを差し引いても新生デライトの完成が遠く感じる。ここ数ヶ月だけでも明らかに多くのことを実現しているのに,もう少しだという意識が高まれば高まるほど残りの当努が重く感じる。
加えて,「デライトの完全な成功」が意味するものの微妙ながら小さくない変化がある。イーロン・マスクによる Twitter 買収以降の SNS 戦国時代で,デライトが一気に大舞台に引っ張り出されてしまった。
ほとんどの競合が「次の SNS」に留まる中,KNS として「SNS の次」のビジョンを明確に提示出来る世界で唯一のサービスがデライトだ。それを世の中に伝えることが出来れば,世界一の大富豪を制し,世界情勢をも左右するネット文化の大革新を果せる。
希哲館事業が長年目指してきたことが,ここ数ヶ月ほどのあいだに急速に,目前に迫ってきている。昨年の日記にも似たようなことを書いているが,その時の「デライトの完全な成功」と「世界史上最大の成功」が定義上の,やや観念的な結び付きだったのに比べて,今のそれはずっと生々しい,世俗的な現実感を伴っている。いまデライトの完全な成功を果すことと,世界中の注目を集めること,莫大な利益を得ることが直結しているからだ。これも当努と同じで,もう少しだと思えば思うほど時間が長く感じる。
この難しい状況で平常心を保つために,とりあえず,目の前の当努と輪郭整備を極力強く意識することにした。考えても疲れるだけのことは考えないようにする。
今年に入ってから,新生デライトの完成への意識が高まったこともあり輪郭整備にほとんど時間を割けなかった。今日は開発作業の合間にちょこちょこ輪郭整備をしてみたが,やはり精神衛生上の効果が大きいと感じた。
最近,SNS 戦国時代を観察しながら「オタク文化」についてよく考えていたが,これまでオタクというものを漠然としか理解していなかったことに気付いた。
同時に,自分がオタクではないということにも気付いてしまった。昔から,オタク文化には抵抗が無いのにネットのオタク交鳴体がやたら苦手だった。それはオタク嫌いだからではなく,元々,子供時代から特定の集団に属することが苦手だったからだ。
教室の隅で漫画を描いているような子,勉強好きな子,スポーツ少年,不良少年……誰とでも遊びたいし,なんでも知りたい,なんでもやりたい,そういう子供だったよな,なんてことを思い出していた。私にとって,それが「自由」の原体験だった。やがてそれは人生観・世界観となり,希哲館事業にもデライトにも繋がっている。「なんでもメモ」の真意は,分野にとらわれず,この世界について網羅した百科全書を自分の中で育てようということだ。
そもそもこんなことを考え始めたのは,オタク交鳴体を味方に付けられると SNS の地盤作りには有利だなと感じることがあったからだ。人を選ぶ側面もあるが,デライトが今直面しているキャズムの早さと深さを考えると,隣の芝生的に羨ましいと思わなくもない。
結局,私自身は,オタク文化をつまみ食いするのは好きでも,オタク文化に囲まれるのは嫌いな人間であって,いわゆるオタクとは言えないのだということに気付いてしまうと,何かを期待していたことも滑稽に思えてくる。
巨大なオタク交鳴体を味方に付けても SNS の立ち上げには長い年月と大きな苦労が伴うというのに,デライトの文化を一から広めるってどれだけ無茶な話なんだ,という気重な気付きでもあった。前向きに考えれば,長年のもやもやが晴れてすっきりした部分もあるので,精神の最適化が進んだとも言えるか。
そろそろ脳爆発も落ち着く頃かと思ったが,また勢いを増してきた。夜には酔いのような感覚が少しあった。
気付けば夜遅くの入眠も定着しつつあるので,生活律動矯正も意識し直すことにした。
近頃感じている良い心境の変化としてもう一つ,デライト開発を「足が地に着いた仕事」として捉えられるようになっていることがある。生活と資金繰りの手段として確立しつつある。
もちろん,希哲館事業もデライト開発も最初から仕事としてしていることではあるが,構想が巨大過ぎるし,採算も生命も度外視でなければ進められたものではなかった。進歩とともに少しずつ仕事としての現実感は増してきたものの,ついこの間まで,フワフワしたところが少なからず残っていた。
今後のデライトにとって心強いことでもあるし,それだけデライトが確かな製品になっているということでもある。
無理をしないと書いたそばから,調子が良いを通り越して過熱気味で,また寝るのが遅くなってしまった。
開発では輪郭選り手の改良に熱中し,輪郭整備もまたお預けとなった。ただ,描出効率の大きな向上が見込める改良となり,今後の輪郭整備を考えればむしろ良かった。きっかけは昨日の開発での不具合修正で,これも怪我の功名だった。
輪郭選り手改良に意識が向いたのは,最近,執筆環境としてのデライトへの期待が高まっていたからかもしれない。もちろん,デライト文書整備が念頭にある。
デライトの完全な成功までの「最後の壁」だと思っていたものを突破しては次の壁にぶつかるということを繰り返してきたので,“その時”が来るまで,結局何が「最後の壁」なのかは分からないだろう。
用者が大きく増えないままデライトが進歩し,洗練されるたびに不思議な感覚を覚えてきた。こんなに凄いものをこんなに少人数で使っていることに,罪悪感に近いものを覚える。隠しているわけでもないのに独占しているみたいだ。事実,デライトほど構想的・技術的に高度で,高品質で,なおかつ無名なサービスは他に無いだろう。
現在のデライトを俯瞰した時,明らかに欠けている大きな部分はもはや一つしかない。それが“文書”だ。
正式離立から適当な状態のまま,ほとんど手を入れていないデライト文書の整備を遅らせてきたことには,修正回数を最小限に抑えるという戦略的な理由があった。実際,ここまでのデライトの急激な変化にいちいち文書を追随させていたら,デライト開発自体がここまでの速さで進んでいないだろう。第二次快調期と第四次宣伝攻勢を経て,安定感が出てきた今が一番効率的・効果的に文書整備を進められる時期なのは間違いない。