宇田川が17歳の時に体験した爆発的な着想。最初の脳爆発。きっかけは射雨だった。流動の性質に関する観察から。
後に輪郭法と呼ぶ理論はここで生まれ,希哲館事業の核となっていく。
「悟り」や「開眼」など,仏教用語を借用することが多かったが,語弊もあるため希哲11年3月10日から「閃き」と表現することにした。
私は希哲館事業,希哲館事業とよく書いているが,それについてまとまった文章がほとんど無い。近いうちに解説文を書くつもりだが,今日は簡単に,「なぜデライトに希哲館事業が必要だったのか」を書いてみたい。
希哲館事業とは,簡単に言えば,「社会が輪郭法を最大限に活用出来るようにするための事業」だ。輪郭法というのはデライトの原理にもなっている理論で,このような技術を実装し,普及活動を担い,より良い活用の仕方を探求しているわけだ。
希哲館事業の歴史は,輪郭法の歴史と同じくらい長い。というのも,輪郭法を私が閃いたのとほとんど同時に生まれたからだ。
私が17歳で輪郭法を閃いた時,これが知能増幅(IA)技術につながることに気付いた。それと同時に,単なる技術に留まらない可能性と課題があることにも気付いた。これは現代人の人生観や世界観,政治や経済のあり方をも大きく変える発明になる。少年時代の私はそう直感した。
そこで,輪郭法とその応用技術を中心に,超現代的な全く新しい思想体系と社会基盤を構築する事業を構想した。これがつまり,希哲館事業の青写真だ。
「希哲館」は,事業の拠点となる機関・文化施設として構想したもので,建築構想でもある。その名には,輪郭法による「希哲」の復興という思いを込めた。希哲元(2007)年11月1日,希哲館事業は発足した。
個人知識管理というものを突き詰めていくと,それは知能増幅技術になる。そして知能増幅技術には,それを取り巻くあらゆる課題に対応する包括的な事業が必要になる。デライトに興味があっただけなのに,希哲館事業なんてややこしいものが出てきて面喰らった人も多いだろうが,全て必然だ。そして,それだけの背景を持っているのは,世界を見渡してもデライトしかない。
もう一つ,希哲館事業自体が,知能増幅技術としてのデライトの「デモンストレーション」になっているという側面がある。どんな新技術にも,見本になるものが要る。人類史上最大の事業構想とも言える希哲館事業構想以上にデライトの性能を実証するものは無いだろう。
経験上,突然過剰なほど好意を示してくる人は,あるとき突然離れていく。要するに,思い込みの激しい人だ。こういう人が世の中には一定数いる,ということを知り,あしらい方を身につけるには時間が要る。特に若い頃は振り回されたりする。
希哲館事業は今や世界で最も風変わりな事業と言っても過言ではない。こんなことをやって生きていると,人間の誤解について色々と学ぶことがある。
かくいう私も,もっと若い頃は「理解者」を求めていたように思う。自分のことを理解してくれる誰かがいる,という幻想は,よくもこれだけ社会で共有されるようになったものだ。それに毒されていたのだろう。
ただ,ある時ふと気付いた。そもそも,希哲館事業なんて思い付いた自分自身ですら理解しているとは言えないものだ。言語にならない閃きがあって,それをどう表現したらいいのか模索し続け,デルンのような「知能増幅技術」を作り,ようやく頭の中が整理出来るようになってきた。そんなものを理解出来る他人がいるはずもない。
理解者なんじゃないかと思っていた人が,たまたま都合が良かっただけの「誤解者」に過ぎなかった,ということにも気付いた。彼らとの関係は,「理解した気になっている」間だけの条件付きの関係に過ぎなかった。
そして最も重要な気付きは,理解者なんて薄っぺらいものよりも,尊い「無理解者」に自分が助けられてきたということだった。これまで自分を理解してくれないと思っていた人達が,実は,理解出来なくても無条件で愛情を注いでくれる人であり,温かく迎えてくれる人であり,助けてくれる人だった。自分は随分そういう人達に恵まれてきたと思う。だからこんな理解され難いことを延々と自由にやってこれた。「青い鳥」とはこういうことなのだろう。
実際の所,私の周辺に私の理解者なんて人間はいない。家族,親戚,友人……みんな無理解者だ。いつも私のやることには首をかしげている。首をかしげながら,仕方ないと言って,様々な形で助けてくれる人達だった。だから孤独というわけでもなく,生活に困るでもなかった。
これはデライト用者もそうかもしれない。デライトを理解出来た上で使い始めた人はいないだろう。理解したつもりになった人はいつの間にか去っている。よく分からなくても,何かを感じるから使い続けてくれる人達が少数ながらいる。そういう意味では,彼らも私にとって「理解者より大切な人」だ。
寝不足も続き,いつ疲労感に襲われてもおかしくない状況だが,絶好調だった。
先月20日頃まで,この日にはデライト収益目標を達成し,デライトの春,希哲館の春にしたいなどと思っていた。収益目標は未達だったが,ここ一週間,美しい桜並木を見ながら,思い描いた通りの春の訪れを感じていた。代わりに得たものがそれだけ大きかったということだろう。
今を仮に「希哲館累新期」と呼び始めた1月にそれほどの確信は無かったが,希哲館本館構想の具体化を経て,今まさに「希哲館累新」が起きていることを確信した。竜力,竜虎計画など初期の構想についても久しぶりに思い出していた。
希哲館事業構想は,輪郭法の閃きから生まれたものだ。その輪郭法を力に変えるデライトによって希哲館事業の可能性が広がるのは必然なのだろう。
10日までに新生デライトをある程度の形にし,20日までに諸調整・仕上げを終え,年度始めから黄金週間に向けて世間が少し落ち着く下旬に第三次宣伝攻勢を仕掛けたい。
第三次宣伝攻勢も,先月のデライト開発の快調を受けて変容した。短期間に集中して,印迫を最大化することを考えるようになっている。これは一夜革命そのものだ。「デライト一夜革命」を第三次宣伝攻勢の定問とすることにした。一夜城たるデライトの品質に自信が持てなければ考えられないことだった。
一日一文はデライト正式離立から間もなく完全に途絶えていた。単純に忙しかったということもあるが,発信媒体としてのデライトがあらゆる意味で不安定で貧弱だったということも大きい。今のデライトなら効果的に発信出来るだろう。
短期集中生活中に無理をしてやることでもないので,余裕の出来た時期に始めたい。
ここ最近の心境の変化の中で,「反餓精神の芽生え」が特に重要なのではないかという気がしてきた。
デライト収益目標達成を考える上で,何が一番の問題かといえば,自分自身の反餓精神や金銭欲,物欲といったものの乏しさだと感じていた。人生観,希哲館事業構想の途方もない大きさ,環境などの特異性ゆえだろう。金が稼げなくて具体的に困ることも特に無かった。ところが最近,色々なものが欲しくなる。
希哲館事業が一つの山だとすれば,これまでは,遠くから眺めて下準備をしているような感覚だった。どこから頂上まで登っていけるのか見当もつかない,天までのびる山だった。気付けば,デライトのおかげで,この山の頂上に向かって登っている実感が得られるようになっている。こうなれば次の高みに早く進みたくなる。
思い返せば,私が人並の欲を失ったのは17歳の閃きの頃だ。それからは「大欲は無欲に似たり」を地で行く人生だった。これはそんな人生にとっても事業にとっても物凄く画期的なことなのかもしれない。
この頃,透明性についてよく考える。直接意識してきたわけではないが,結果的に私自身も希哲館事業も限りなく透明化しつつある。これも可知性ということか。
今日は開発も快調で,自我アイコン設定機能実装の区切り付けを終えた。本番環境でも手定めに自分とデライト公式の独自アイコンを設定してみた。それだけのことなのだが,妙に胸が熱くなり,感無量だった。
画竜点睛というべきか魂が入ったというべきか,小さなことのようで想像していたよりずっとデライトが生き生きとして見える。
竜胆蛍がいかに私と希哲館の精神の象徴といっても,やはりどこか覆面をしているような感覚があった。
本当に鏡のようになったデライトに映る自分を見ていると,ここまでのわがままを許してくれた周囲の愛情と幸運の多大なことに感謝の念を抱かざるをえない。
最近,自分の境遇について考えさせられるような,ちょっとしたことが立て続けに起こっているせいで余計感傷的になっているのかもしれない。今こうしていられるのも,環境と偶然のおかげだったんだな,と改めて実感させられることが多い。
もうデライトの成功なんか無くても,『パーフェクト・ワールド』のごとく明日のたれ死んでも贅沢なくらいじゃないかと思うくらい既に幸福な気がするが,これはやはり克服すべき自己中心性なのだろう。
閃き以来のこの自己中心性こそデライトをここまでの形にした創造性の核だった。しかし,それだけでは「奉仕」としてのサービスは成立しない。この喜び(delight)を広く共有出来るものにしなければならない。そのためには,お題目ではなく心から思いやりが生じなければならない。
別に今初めて思ったことではないが,一つ峠を越えた後で,自然にこういう感情が湧き出てくるということがデライトの成功にとっては希望だ。
今日は仕事でもない中途半端な用事で出掛ける必要があり,疲労の蓄積(特に脳疲労)も気になっていたため早めの休日にした。
早朝は雨だったようだが,出掛ける頃にはよく晴れて気持ちの良い天気だった。デライトの春,希哲館の春を予感させる陽気の中をぶらぶら歩き,散髪もして,非常に良い気分転換が出来た。
ぶらぶらしながら,希哲館事業の原点である「閃き」についてよく考えた。あの体験がなぜ輪郭法を生み出したのか,いまだに上手く言語化出来ていない。
閃きの瞬間,射雨が身体を伝わり,排水溝に流れていくのをじっと見つめていた時の感覚はいまでもよく憶えている。その直前,概念の塊が頭の周りに浮かんでいるような感覚もあった。これはデルンの用合いの原型になっている。
いま思えば,水が道を作って川となるように,絶え間なく続く流動が,静的な観念に通り道を作ったのかもしれない。それが脳内の信号の流れにも一致すれば輪郭法が出来るわけだ。
そこから瞬く間に「相通化技術」を中心とした希哲館事業の青写真が出来た。「流」は仏教的な「空」とプラグマティズムその他諸々を綜合したような概念となり,東西思想の統合を予期させた。人生観も世界観も,全てが一変した。
そんなことを考えていると,いま言う黄金循環すらあの時に見た排水溝が作る渦のように思えてくる。
実益から最も遠く,休日でもなければそう出来ない,しかし極めて意義深い考え事だった。デライトの成功,希哲館事業の成功も目前という時期だから尚更だ。
最近,黄金循環によって描出宣伝に期待出来るようになったことで描出思考が増え,自然と暗黙宣伝やツイスト宣伝が減っている。ちょうどいい節目なので,昨年10月20日から始まった第二次宣伝攻勢はここでいったん終了とし,2月中に新生デライトとしての体裁を整えてから第三次宣伝攻勢を始めることにした。
宣伝停止までする必要はないが,第三次宣伝攻勢まで Twitter を絡めたデライト宣伝は適宜,不定期でいいとして,当面は開発と文書整備に集中する。
一昨年よく使っていた「デライト仮公開」や「デライト再公開」という用語について整理するため日記や開発記録を読み返していると,当時の思考と感情が驚くほど鮮明に蘇ってきた。「発明疲れ」と言うほどのアイデアの爆発,デルン三大整理……一日であの一年を再体験したようで,せっかくの休日だというのに少しぐったりした。
昨晩ふと思いついてから,これまで自分の身に起きた奇跡ような出来事について数えたりもしていた。
今となってはありとあらゆることが奇跡のように感じられるが,最初の奇跡だった閃きから,希哲館事業がここまでの形になったこと,時代,土地,家系,容姿にまつわること……特に信じがたかったことだけを挙げても五大奇跡か六大奇跡くらいはある。
これらに続くべきまだ起きていない奇跡は二つしかない。一つは希哲館事業収益化(デライト収益化)だ。もう一つが最後の奇跡になるだろう。
私が常識で考えればありえなさそうなことに希望を抱けるのは,実際にありえないようなことを数多く体験してきたからだ。
しかし,思い通りの結果が出るまでサイコロを振り続けることが出来ただけだとすれば,その環境に恵まれたことが最大の奇跡かもしれない。