宇田川が17歳の時に体験した爆発的な着想。最初の脳爆発。きっかけは射雨だった。流動の性質に関する観察から。
後に輪郭法と呼ぶ理論はここで生まれ,希哲館事業の核となっていく。
「悟り」や「開眼」など,仏教用語を借用することが多かったが,語弊もあるため希哲11年3月10日から「閃き」と表現することにした。
昨日何気なく「デライトの歩み」と題して閃きからの歩みを振り返る文章を書き始めてしまい,希哲館事業に関する輪郭整備も進んでいる。希哲館事業に関する輪郭は古いものほど雑に放置している現状があったが,「輪郭整備兼一日一文」が推進力になりつつある。
デライトから見た希哲館事業は,サービスの大きな展望を表現する手段でもあると考えあえて強調することがある。ドメイン名 dlt.kitetu.com
はその好例だ。その割に,利用者が希哲館事業について知るための情報は整理されておらず,ただの怪しげな要素になっていた。新生デライトの完成までに,好材料にはならなくとも,せめて悪材料にならない程度には整理しておくべきなのだろう。昨年から意識していた「希哲館累新」の過程とも言える。
今日は家族で出掛ける用事があったのであまり作業は出来なかったが,かなり精神力を使うので脳過熱の抑制には良かった。心身ともに心地良い疲労感があるため早めに寝ることにした。
今日はそれなりに利楽出来,デラングの周縁的な検討などをしながらゆっくり過ごした。
最近,特にデラング的転回以後,デラング整備が何か大きな扉を開こうとしているような感覚が日に日に強くなっている。
意味記述から意味管理へ,という閃きの順序が,デライト理解の最適な順序でもあると確信出来るようになった。デラングは「閃きの追体験」を可能にするだろう。
デラング整備によって,希哲館技術体系もようやく世に出す機が熟しつつある。知番文書も必要になるし,Dex を公開するなら Cμ の公開も必要になる‥‥と,芋蔓式に引き出されていくだろう。その背景にある希哲館事業の全貌が照らし出されるのも時間の問題だ。
デラングを中心としたことで事業全体がぐっと引き締まり,あらゆる面で整理しやすくなったようにも感じる。
輪郭法から,デルン,デライト,デラングと段階的に焦点を絞り込むようにここまで来たが,この調子だとデライト一夜革命というより「デラング一夜革命」になりそうだ。
`dlt.kitetu.com`
}{`dlng.kitetu.com`
}{デライト市場戦略}...10年前のこの日,デルンに最初の描出をした。それがデルンの始まりとするなら,今日でデルン10周年だ。
大小様々な追い風を受け絶好調な今のデライトも,この第一歩が無ければ存在しなかった。そう思うと,色々な感情が溢れてくる。
最近,あらゆる面でデラングがデライト開発の主役になっていると感じていたが,それが何故なのか,実は理解が追いついていなかった。直感に導かれるままここまで来た。この節目にデルンの歴史,輪郭法の歴史を振り返ったことで,ようやくはっきり理解出来た。
輪郭法の原点は,「意味を書きたい」という欲求だった。“意味記述のための意味管理”を可能にするために輪郭法は生まれた。その閃きが,希哲館事業のビッグバンだった。
だから,意味記述の技術であるデラングが重要なのは当然だ。それを忘れていたわけではないが,どこかでデラングの重要性を過小評価していた。輪符による意味符号化が出来た時点で,あとは「おまけ」という感覚があった。気付いてみれば,これがとんでもない誤解だった。
輪符による意味符号化が出来たところで,それだけでは活用範囲は広がらない。デラングの表現力を高めるということは,意味を書ける領域を広げるということに他ならない。私にとって,何より本質的な仕事だ。今の今まで,これが理解出来ていなかった。
デラングによる対 Markdown 戦略をデライト市場戦略に組み込みながらも「第四次デライト市場戦略」にしなかったのも,明らかに全知検索に代わって黄金循環の中心になっていることを感じながら「第二次黄金循環」とすべきか迷ったのも,この無理解のせいだった。
理解出来てしまえば迷うことは何も無い。今日から希哲館事業の中心はデラングであり,第四次デライト市場戦略の始まりであり,今は第二次黄金循環の真っ只中なのだ。
今日は考える余力が無いが,これまでの,新生デライトの一要素というデラングの位置付けも見直す必要がありそうだ。いずれにせよ,“デライトのためのデラング”ではなく,“デラングのためのデライト”になることは間違いない。デライト開発における言語論的転回,「デラング的転回」とでもいうべきか。
既にデラングは独立した言語という位置付けを持っているため時間の問題ではあっただろうが,デラング文書はドメインも dlt.kitetu.com から切り離し,dlng.kitetu.com などとして公開することも決めた。
デラング開発には,CnD 開発や Synx 駒手,知機駒手開発,希哲館訳語や交度英語の整備などで培った経験と技術を幅広く活かせること,高度非言語思考を支援するデルンが欠かせないことも感じていた。しかも,なかなか世に出せなかったこれらの技術・献典よりずっと世に出しやすい性質を持っている。希哲館事業における言語開発の集大成とするに不足はない。
デライト収益乗軌化も目前,デルン10周年,3日後にはデライト2周年という節目にこの気付きを得たことに大きな意味を感じる。脳爆発の噴煙で悪くなっていた視界がまた一気に開けたようだ。
生活律動矯正中ではあるが,この日記だけは熱が冷めない内に書いておきたかったので夜更かしした。
Web Storage API を活用するために @sto を概ね実装した。
昨日までの違了処理整備で,描出失敗時の無駄なページ遷移を概ね抑制出来るようになったが,輪結のクリックなどによる「誤遷移」で書きかけの内容が消えてしまう問題が残っていた。開きっぱなしの新規描出フォームはともかく,開閉式の再描出フォームは「戻る」ではまず復元されない。
ここで,以前から考えていた,localStorage を使った抜控機能を実装してしまいたい。
抜控強化による信頼性向上はもちろん,ページ移動しながらの編集が可能になるなど用合い上の改良にもつながる。
デラングを前縁で換配したい場合にどうするか考えていたが,ここで wasm が使えそうなことにも気付いた。
これを仮に「wasm-Dex」と呼んでおくことにした。
一日一文という日課を再開して3ヶ月経ち,希哲館事業についてもだいぶ伝えやすくなったと感じている。
この希哲館事業も,11月1日に14周年を迎える。もっと遡って,17歳の時の「閃き」を原点とするなら,もう20年近い歴史がある。今まさにデライト収益目標達成に向けて大詰めという時期だが,これだけ長い間,まともな収益がなく事業が存続してきたことには,いくつかの理由がある。
まず,「日本はどう逆転するか」や「私の政治思想」などを読めば分かるように,希哲館事業構想は,「人類史上最大の事業構想」と言っても過言ではない無謀の極みであり,当然ながらその自覚と絶望から始まっている。
希哲館事業の可能性に気付いた17歳の私は,その過程にある,あらゆる困難を想像し,絶望と戦うことになった。
この前年,アメリカ同時多発テロ事件があった。希哲館事業の根底には,あらゆる宗教,あらゆる思想を越えて世界を連帯させうる“新しい価値観”への世界的な要請があったように思う。
今となっては笑い話に近いが,そんな世界情勢もあり,私は,イスラム過激派にでも捕まって自分が生きたまま首を斬られたり,日本を追われて世界を放浪したりするのではないか,そんなことまで想像していた。そんな極限状態でもこの事業を育てるために,あらゆることを考えた。
閃きから5年後,私はあらゆる困難と戦う覚悟を決め,希哲館事業を始めた。全ての神,自分以外の全ての人間を敵に回すかもしれない,人生の全てをかけた努力が全く報われないかもしれない。それでも自分はこの事業に尽力しよう。そういう覚悟だ。
希哲館館章「竜胆蛍」は,この絶望的な暗闇に飛び出す一匹の蛍を模したものだった。希望と知の儚い光であり,滅びの美学のような,私の人生観と覚悟を象徴するものでもあった。
それから14年近く経つが,想像していたような貧苦も迫害もなく,この日本社会でぬくぬく楽しくやってこれてしまった。稼げなくても大して困らず,あの覚悟のおかげで,むしろぬるま湯のように感じていた。
希哲館事業を始めたばかりの20代の私には,自分の5年先の人生が全く想像出来なかった。20歳ちょっとの時は25歳くらいで死んでいるだろうと思っていたし,25歳くらいの時は30歳まで生きていないだろうな,と思っていた。いま私は36歳だが,健康そのものだ。
家族にも親戚にも見放され……というようなことも覚悟していたが,そんなこともなく,関係は割と良好だ。
もっと若い頃の私は,端的に言って「極度の世間知らず」だった。希哲館事業なんてものを始められる人間は,日本どころか世界を見渡してもまずいない。それが出来るのだから,何か自分には特別な力が宿っているのではないか,などと思っていた。自分は矢吹丈みたいなものだと思っているくらい,環境というものを無視していた。
散々周囲に助けられ,世間について知るごとに,そういう考えは出来なくなった。どんなに覚悟があり性格が向いていても,この特殊な環境が無ければここまで来れなかっただろう。
最近,父親と話すことが増え,父に似た性格も希哲館事業を続けていられる小さくない要因だなと思う。
父は子供の頃から数学が好きで,埼玉大学の数学科に入ったものの学生運動のごたごたで中退,その後は情技(IT)で起業してみたり色々あり,いま70歳を越えているが,画期的な数学の教科書を作って数学塾を開こうと奮闘している。
いつまで経っても金を稼ぐのが苦手で,ぼろぼろになりながら夢追い人を続けているような人だ。なけなしの貯金でデライトに出資してくれるような不思議な人でもある。
そんな父を見ていると,70歳,80歳になっても希哲館事業を続けている自分が容易に想像出来てしまう。
私も,もう希哲館事業について考え始めてからの人生の方が長い。デライトで多少世に出た感はあるが,それはつい去年のことだ。仮にデライトがずっと鳴かず飛ばずだったとしても,死ぬまでこんなことを続けているのだと思う。
この一日一文という日課を再開してから改めて強く感じることは,私にとって最大の関心事は私自身だということだ。
確かに,釈迦,孔子,ソクラテス,キリスト……その他高名な歴史上の思想家達の思想や生涯よりも,自分自身が体験した「閃き」の方が私には気になる。あの閃きの起源と真の可能性を探究することが生涯の仕事になるのだろうと思う。
10代の頃から世界中の思想について情報収集してきたが,ほとんど自分自身の体験だけを元にここまで思想を展開し,独自の技術まで開発している人間なんて他には思いつかない。「独創的」という日本語は賞賛に近い響きを持っているので自分で言うのはすこし憚られるが,「世界で最も独自的な思想家」くらいのことは言っても許されるだろう。
もっとも,“独自性”というのもここまで来ると実際病気に近いものがあり,一概に褒められたものではない。この独自性のせいで自殺を考えるほど悩んだこともあるし,この独自性から生み出したデライトはその独自性ゆえに苦労しているわけだ。私が希哲館事業を「精神の癌」と呼んできた所以だ。
それでも,私がこの極端なまでの独自性に希望を見出しているのは,しばしば「独自性の欠乏」を指摘される日本で,閉塞感の突破口を一つでも多く作りたい,という思いがあるからだ。
日本は紛れもなく“個性的な”国だ。外国人は,お世辞もあるだろうが「日本人はユニークだ」などと言ってくれる。ただ,日本人自身は,その個性の大半が,個人によるものではなく,みんなで同じことをやっていたら世界的には珍奇なことになっていた,という類のものであることを知っている。ガラパゴスというやつだ。
思想・哲学の分野で昔からありがちな日本人批判に,外国の思想や思想家についての研究者は多いが,独自の思想を持つ日本人がほとんどいない,というものがある。日本人がやっているのは「哲学」ではなく「哲学学」に過ぎないのではないか,というわけだ。
これはいまだに重い問いだと思う。「日本の個性的な思想家」というと,武士道やら禅やら外国人の東洋趣味に訴えるような人であったり,サブカルのような「隙間」で活躍する人ばかりが思い浮かぶ。世界史のど真ん中で,例えば,ルソーやカント,マルクスなどと肩を並べられる日本人思想家が一人でもいるか,という話なのだ。
私は,10代の頃から哲学と情報技術の両方に関心を持っていたので,日本の情技(IT)業界にも同じような「日本病」があることに,割と早く気付いた。
情技業界でも,やはり外国から来た技術や流行について日本人は敏感で,非常に勉強熱心だ。知識量では決してアメリカ人に負けていないだろう。ではなぜアメリカにここまで水をあけられているのか。外国人が作ったものを勉強することは出来ても,世界中で勉強されるようなものをなかなか作り出せないのだ。
こんなことを言うと,特定分野で一応世界的に名の知られた日本人を引き合いに出して反論したくなるかもしれない。しかし,これも先の思想家についての問題と同じで,ではジョブズやゲイツのような経営者,ドナルド・クヌースやケン・トンプソンのような技術者と並び称される日本人が一人でもいるだろうか,と考えてしまうと,残念な結論しか出ない。
あの凄いアメリカ企業で出世した,あの凄いアメリカ人と知り合いだ,この業界での「凄い日本人」の話は大抵こんなものだ。気休めを言ったところで,彼我の歴然たる差は認めるしかない。
ただの日本人批判をするつもりはない。
私は,個人の性格にも,いわゆる国民性にも,一概に優劣をつけることは出来ないと思っている。実際,日本人は,この日本人らしさで,一番ではないにしても十分な成功を収めてきた。しかし,向き不向きはある。今の日本人は,明らかに知識産業には向いていない。これからの知識産業時代に適応出来ない。ではどうすればいいのか。
やはり,日本人自身が,日本から世界に向けて,「誰も投じたことのない一石」を投じなくてはならない。成功するにせよ失敗するにせよ,希哲館事業もその一石には違いない。だから,少なくとも希哲館事業が日本にある限り,日本にはまだ可能性がある,と私は思えるのだ。
アメリカ人は,ぼろぼろの吊り橋を平気で渡っていく。日本人は,それをずっと後ろの方で様子見して,石橋が出来てからそれを叩いて渡る。これでは勝てないのが情技産業,知識産業だ。
世界のど真ん中で,誰もやらなかったこと,誰もやれないことを誰よりも先にやり,誰も見たことがないものを誰よりも先に見る。いま日本が必要としている“独自性”というのは,突き詰めればそういうことなのだと思う。