希哲14年2月13日24時15分,ボロボロの状態ながらも達成。

{希哲16年6月17日の日記 K#F85E/E74C-A4FB}

{希哲16年4月10日の散歩 K#F85E/E74C-51E1}
11時頃から葛西臨海公園,若洲海浜公園,夢の島公園,辰巳の森海浜公園などを巡って17時過ぎ帰った。道に迷うことが多かったせいもあり,昨日の最長記録を大幅に更新し,約48.1km走った。
休日なので少し遠い辰巳の森海浜公園を目指して出発したが,葛西臨海公園を通り,荒川河口橋を越えたあたりで勘違いして左に曲がってしまい,若洲海浜公園に着いた。ここはここで海が綺麗に見える良い公園だった。植物を見るなら葛西臨海公園で十分だったので結果的には良かった。
海を見ながら戻り,15時頃,少し懐かしい辰巳の森海浜公園で休憩した。デライト正式離立前に何度か訪れ計画を練った思い出があり(希哲13年10月7日の散歩記録),なんだか感慨深かった。近便で適当に買ったもので食事を取り再開,葛西臨海公園でぶらぶらしてから帰った。
他の大きな公園を走ってみたことで,葛西臨海公園のサイクリングコースとしての優秀さを再確認した。小さ過ぎず大き過ぎない敷地に見所が凝縮されていて,自転車の移動速度に対する景色の多彩さが絶妙だ。ただ漠然と広いだけの公園で感じる退屈さが無い。希哲荘からの距離も運動には最適で,恐らく最高の場所だろう。徒歩で行くことが多かったので,いままでこの真価に気付かなかった。

{希哲16年4月5日14歩 K#F85E/E74C-6431}
CSS 変数(カスタムプロパティ)の導入と舞覧五年対応原則の採用を決めて終了。今後デライトでは,「5年以内に離立された版存の主要舞覧」を中心に対応していく。
希哲15年3月1日の開発から「デライト推奨動作環境」として同様の定義を考えてはいたが,当時は,古い舞覧対応の努力はするが推奨はしない程度の,もっと緩やかなものを想定していた。
希哲13年に ECMAScript 2015,HTML5,CSS3 と比較的新しいウェブ標準の導入を決めてからだいぶモダンにはなったが,まだデライトの舞覧対応方針には感覚的で保守的なところがあった。感覚的に,影響範囲の広い付徴は主要舞覧の対応から10年,影響範囲の狭い付徴は5年を目安に導入を考えていた。rem
ですら必要以上には使わなかった。
先日,前次記法実装でグリッド領当てを導入したが,これはちょうど主要舞覧で使えるようになってから5年ほど経つ機能だった。一記法の装体に過ぎなかったこともあり,ここまでは辛うじて良かったが,他にも色々応用したいことが出てきて舞覧対応方針見直しの必要を感じていた。
決め手は,デライトのダークテーマ対応も見据えて CSS 変数の導入を考え始めたことだった。CSS 変数も主要舞覧の対応から5年ほど経つが,本格的に導入するとなると影響範囲が広がり過ぎる。
Can I use で対応舞覧をよく調べるようになってから,「5年以内に離立された版存の主要舞覧」が意外に普及していることに気付いた。大体90%以上はある。
地域にもよるだろうが,確かに,今時古い舞覧を使い続ける方が難しいかもしれない。個人機なら5年は平均的な買い替え周期であり,スマートフォンなら古い部類だろう。自動更新も標準的になった。昔と違って,多数派の“普通の人”ほど新しい舞覧を使っている。
あえて古い舞覧を使い続ける場合というと,一昔前なら古い個人機の再利用というのがあったが,格安インターネット端末が普通に流通している今,新しい舞覧が使えないほど古い端末を使い続ける費用対効果は疑わしく,制危も考えれば推奨出来ることではない。
一番面倒なのが舞覧の更新が許されない企業内利用だが,そもそもそんな保守的な環境でデライトが利用出来るとは考えにくい。
こう考えていくと,デライトにとって古い舞覧への対応の重要性は極めて低いと言わざるをえない。
奇しくも,新生デライトの完成を目指している6月の15日に,IE11 のサポート終了がある。中途半端な気もする内容だが,いわゆるモダンではない舞覧最後の砦が崩壊する。新しいウェブ標準への社会的移行の象徴的な出来事にはなる。
ある程度古い舞覧への対応を考慮してきたのは,企業体力がついた将来,対応を拡充することを考えていたからだったが,これもよく考えると合理性が怪しい。
“技術的負債”は簡単に金で返せるものではない。大企業が肥大化した交度にいかに苦しめられているかを考えれば,合理的に古い舞覧への対応が出来る日が来るかどうかも分からない。むしろ,組織が大きくなった時にこそ見通しの良さが重要になる。
もっと根本的なことを言えば,デライトはウェブ標準という盤本の“キラーアプリ”になるべきものだ。新しいウェブ標準の普及を牽引していくくらいの考えがなくてはいけない。
その伝証の足掛かりがすでにこれだけ普及していれば十分過ぎるだろう。
舞覧五年対応原則の導入によって,ウェブの理想と現実における汚い現実の大部分だった古い舞覧を正しく切り捨てることが出来るようになり,前縁整備はもちろん,デライト文書整備でも大きな効率化がもたらされるだろう。文書整備では,対応舞覧についてどう説明していくかが一つの課題だった。ここまで絞り込めば説明もすっきりする。
デライト開発を劇的に合理化した描出公開原則とともに「デライト二大原則」と呼ぶべきかもしれない。思えば描出公開原則もデライト正式離立という大きな節目を目前にして生み出したものだった。

{希哲16年2月23日12歩 K#F85E/E74C-BD5C}
今のところ,デラングの版存の最新定義は以下のようになっている(希哲15年5月15日の開発)。
この定義は実装基準で行ったもので,その後の劇的な実装の変化に全く追い付かず,更新していない。そもそも,サービス中心に開発されている性質上,仕様と実装を一致させないことも場合によっては必要になり,区切りが難しい。
最新のデラングの位置付けを考えても,仕様と実装を分離し,デラングの版存は仕様基準に決めるべきだろう。それへの追随度で Dex の版存を決める。
0.03 は決定当時の仕様をもって再定義するとして,現在のデラング整備が一段落したところで 0.04 をまとめ,その次の 0.05 に破壊的変更をまとめることにした。この「破壊的変更」は,主に旧キーボード記法のウィキ互換輪結記法への転用を想定している。
Dex の版存は,現行版を形式的に Dex 0.01 としておき,次でデラングと歩調を合わせ Dex 0.04 とすることにした。
ずっと忘れていたが,今回の検討で「デラング 0.001」を描出していたことに気付いた。以下のような記述が残っている。
希哲13年7月27日,これまでの DIL との互換性を保った形で整理を進めることにした。
新規描出日時はデライト開発に着手したばかりの希哲13年2月26日。同年7月27日というとデライト正式離立に向けて大忙しだった時期で,すぐ忘れたのだろう。
実質的に 0.03 ということになるはずなので,ここで 0.03 の旧版号と再定義することにした。

{希哲16年2月13日の日記 K#F85E/E74C-DA33}
デライトも2周年を迎えた。希哲14年2月13日24時15分,なんとかデライト正式離立に漕ぎ着けた時の生々しい感覚は今でもよく覚えている。
今日を「デライトの早期成功」の目安としたのは昨年9月7日,金風が起こるわずか11日前のことだ(9月7日の日記)。金風で状況整理が困難になった後は,組計上ほとんど唯一の目印になっていた。
そして今,デライトは非常に評価の難しい状況にある。手放しで成功と言うには収益額が低過ぎるが,不成功と言うにはあまりにも理想的な状況にある。
金風後に「デライト収益目標達成」を「デライト収益乗軌化」に改め,一時的な収益額よりも持続的な成長軌道に乗せることを重視するようになった(11月1日の日記)。その点に限れば成功したと言えなくもない。当時の想定より低過ぎる収益額にもかかわらずそう思えるのは,金風がそれだけの時間稼ぎをしてくれたからでもあり,目先の金銭以外の収穫が想定をはるかに越えて多大だったからでもある。
今のところ,デライトにも希哲館事業にも不安はない。とっくに収益面以外では理想的な状態にあったのだから,まさに「鬼に金棒」だ。
今は黄金状態を極力維持し,黄金循環を加速させ続けることくらいしか新しい目標も思い付かない。もう人類の限界というか物理的な限界に近い気がするので,これ以上無理をしても早死にするだけだろう。
成功したのかどうか,頭で考えようとすると訳が分からなくなってくるが,とりあえず気分は最高だ。
それを象徴するかのように,今日は“空を飛ぶ夢”から目覚めた。人間が腕をばたばたさせると鳥のように飛べる世界で,仲間に混じって自分もやっと飛べた,という新鮮な夢だった。
昔から,希哲館事業を背負う自分は飛べそうで飛べない幼鳥みたいなものだと思っていた。それはもどかしさでもあり,嬉しさでもあった。何せ,希望を持つことすら絶望的な事業として始まったのだから,飛び立つ希望を持てるだけで奇跡のようだった。
それが本当に飛べるようになるというのは,奇跡の先の奇跡,夢のまた夢が現実になるようなことだ。今は訳が分からなくて当然なのだろう。

{希哲16年2月2日18歩 K#F85E/E74C-A528}
1月26日17歩でソースの希哲館訳語として「素出」を採用したが,「素文」をどうするかという問題があった。これはもともとプレーンテキストの翻訳語として考えたものだが,デラングのソーステキストという意味で使ったこともあり,揺らいでいた。
ここで,プレーンテキストの新しい訳語として「普文」を考えていたことを思い出した。デライト正式離立に取り組んでいた時期で評価する時間が無かったのかすっかり忘れていたが,十分使えそうなので,ひとまず暫定訳語としておくことにした。素文はやはりソーステキストと解釈するのが整合的だろう。
ついでに「テキスト」をどう訳すかも再考した。的記,的書,適書といった案があったが,決め手が無かった。
カタカナ語としてのテキスト・テクストの大まかな意味は,「研究・学習・処理などの対象となる文」なので,漢字一字ならやはり「的」しかない気がする。「的記」を基本として,「的書」や「的文」と使い分けるべきか。
新たに「底本」からの連想で「底記」という訳語も思い付いたが,「底」では音写性の高い漢字の組み合わせが限られる。

{デライトの“掴み”の良さ K#F85E/E74C-0C2E}
黄金週間を経て,デライト第三次宣伝攻勢も軌道に乗ってきた感がある。
デライト開発は3月から“快調期”に入り,4月下旬までは宣伝を控え目にして開発に専念していた。年度替わりで忙しい人が多く,新しいことはなかなか試されない時期でもあったので丁度良かった。
このあいだまでデライト収益目標達成の必達期限を5月1日に設定していたこともあり,先の黄金週間は,第三次宣伝攻勢にとって「決戦」に近い意味を持っていた。ひょんなことからもう少し時間が出来ることになって,結果的に「前哨戦」とでも言うべきものになった。
その前哨戦で再確認したのが,デライトの“掴み”の良さだった。デライトは,最初だけ妙に面白がってもらえる。宣伝をしていても,その掴みの良さに少し驚くことがある。サービスの新規性を考えると,奇跡的とすら言えるかもしれない。
もっとも,これに気付いたのは昨日や今日ではなく,最初からだ。デライトが宣伝を止めたり再開したりを繰り返していることはこの前の一日一文で書いたが,こんなことをする必要があるのも,宣伝に対する反応が良過ぎるからだ。
昨年2月13日,「正式離立」としてデライト宣伝を始めたものの,こんな珍奇なサービスなので,反応を得るまでには相当な時間がかかるだろう,と思っていた。ところが,どうも「面白そう」と思ってくれる人が多かったようで,宣伝すれば意外とすぐ反応があった。
来てくれるのは無論ありがたかったが,当時のデライトは,今のデライトとは比べ物にならないほど貧弱で,使い勝手以前に,まともに動くのかどうかすら怪しかった。当分誰も来ないだろうと高を括っていた私も,流石にこれは不味いと感じ始めた。粗悪過ぎる状態では宣伝が逆効果になりかねないし,何より,折角期待して来てくれる人に申し訳なかった。
間もなくデライトは宣伝停止状態に入り,「離立補完」と呼ぶ作業を始めた。その目標は,「正式離立後まもなく停止していた宣伝を再開出来る品質を満たすこと」だった。
黄金週間中のデライト宣伝でも,この掴みの良さは健在だった。途中,車の両輪で進めている高速化作業がやや遅れていたため,宣伝の方を抑制したくらいだ。
まだまだ「面白そう」から「面白い」までには距離があり,多くの人が「分かりにくい」と脱落してしまうのがデライトの現状だ。それでも,面白そうと思ってもらいやすいことはデライトの武器なのだと思う。そこが駄目なら何も始まらないのだから。
希望を持って努力を続けていこう,と改めて思えた黄金週間だった。

{デライト第三次宣伝攻勢開始に思うこと K#F85E/E74C-69D3}
今日24日,デライトは「第三次宣伝攻勢」を開始した。簡単に言えば,3度目の積極的な宣伝活動を始めたということであり,裏を返せば,デライトには積極的に宣伝活動をしていない時期があるということだ。
デライトは,昨年2月13日に一応の正式離立を果した。ただ,品質上の問題が多々あったため,しばらくの間はほとんど宣伝しなかった。
本格的な宣伝活動を開始したのは,半年以上経った9月8日だった。それも16日にはいったん停止した。これが「第一次宣伝攻勢」だ。「第二次宣伝攻勢」はその約一ヶ月後,10月20日から今年1月29日まで続いた。
つまり,正式離立から14ヶ月余りのうち,積極的な宣伝活動をしていた時期は,合わせて4ヶ月にも満たない。これは改めて計算してみて自分で驚いた短さだ。もう半年くらいにはなると思っていた。それだけ濃い日々だったのだろう。
デライト宣伝にこうした緩急があるのは,その時に最善の時間配分を考えた結果だ。限られた時間を有効に使おうと思えば,「時間対効果の最大化」を常に意識する必要がある。
当然ながら,私は開発も経営もデライトに関する全てのことを自分でしているので,宣伝活動だけに時間を使うわけにはいかない。ひたすら宣伝して人を集めたはいいが肝心の製品に十分な魅力が無い,というのでは意味も無い。
これは宣伝に限ったことではない。デライトには問題が山積している。あってしかるべき機能は色々欠けている,不具合はあちこちにある,文書もろくに更新していない……だが,全てを最初から整えられる人間はいない。限られた時間の中で,優先順位を付けて一つずつ片付けていくしかない。
そして,時間対効果の最大化を考えると,宣伝にもある程度「溜め」が必要であることに気付く。同じだけの時間を使うのであれば,より品質の良い状態で製品を知ってもらった方が良いわけだ。
ひっそりと開発を進め,ある程度品質に自信が出来たところで宣伝攻勢をかける。その反応次第でまた開発中心の時期に入り,課題が概ね解決出来たところで宣伝攻勢をかける……最初からこういう計画だったわけではないが,結果的にこの繰り返しでデライト自体は順調に来ている。一定の合理性はあったということなのだろう。

{デライトはなぜ成功を急ぐのか K#F85E/E74C-65CE}
昨日の一日一文でも書いた通り,ネットサービスとしてのデライトは,十分な収益が上がっていないという一点を除けば極めて良好な状態にある。開発者としては,そう高くはない収益目標達成をもって一応「デライトの成功」だろうと思っている。
デライトは,昨年2月13日に「正式離立」した。と言っても,あまりに品質上の問題が多かったため,しばらくの間,宣伝はほぼしなかった。積極的な宣伝をしていた期間は,これまで合わせて半年くらいだろうと思う。サービスとしてはまだひよっこだ。
勘報史上最重要かつ成功例の無い分野であることを考えると,成功を急ぎ過ぎなのではないか,と思うことも無くはない。成功が数年後でも十年後でも,別に遅くはない。むしろ,じっくり育てた方が成功確度は上がるだろう。
私が単に一発当てたいだけのサービス開発者ならそれで良かった。しかし,私の目的は,デライトの成功ではなく「希哲館事業の成功」にある。
デライトが成功し,GAFAM を軽く越えるような世界史上最大の企業を作り上げてようやく三分の一の進捗か,というほど希哲館事業構想は大きい。「人類史上最大の事業構想」は伊達ではない。その後にやらなければならないことの多さを考えれば,デライトの成功にてこずっているわけにはいかない。
もう一つ,個人的な感情でいえば,これ以上周囲に迷惑をかけたくない,ということがある。
画一的と言われる日本にあって,私がここまで好き勝手に他人と違うことが出来ているのは,他でもなく環境のおかげだ。デライト自体はついこの間出来たようなサービスだが,その下地は20年くらいかけて作ってきた。ここに来るまでに私がかけた周囲への負担・迷惑は計り知れない。流石にそろそろ償いも恩返しもしたい。
開発者の肌感覚として,デライトの成功は「すぐそこ」だ。しかし,これほど歯痒い時期もない。
一般的な感覚かどうか分からないが,子供のころのマラソンを思い出す。ゴールがすぐそこだと思うと,心理的な距離は長く,足は重く感じるようになる。ここまで来てまだあるのか,という感じだ。
もっと分かりにくく喩えるなら,私はいま,パチンコ「沼」で勝利を目前にしたカイジの気分だ。デライト上にある無数の輪郭がパチンコ玉に見えてくる。流し込み続ければ勝てる。そう分かってはいても,勝つまで心が解放されることはない。

{希哲15年4月9日9歩 K#F85E/E74C-E812}
