{英語}{ダブルミーニング}{あれ}{ネット信仰はどこから来たのか}{希哲13年8月28日}{希哲13年8月28日のツイスト}{〈left〉}{ツイスト}{〈right〉}=}(9)

{あれK#F85E/A-5B28-F47E}

ダブルミーニングなんだ,と強弁するのも残念ながら悪あがきでしかない。left, right がどれだけ英語で当たり前に使われるか,を知っていればそんな馬鹿なと分かる。それがダブルミーニングで通用するなら,英語話者は常にお前は左だ右だと揶揄しあってることになる。つまり全くの無意味。

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{〈lefty〉}{〈left wing〉}{〈The Left〉}{ネット信仰はどこから来たのか}{〈just left〉}{希哲13年8月28日}{希哲13年8月28日のツイスト}{〈libtard〉}{ツイスト}{英文}=}(13)
{ネット信仰はどこから来たのか}{希哲13年8月28日}{希哲13年8月28日のツイスト}{ツイスト}{デマ}{ネット}=}(6)

{あれK#F85E/A-5B28-9979}

ネットで脱力するようなデマが氾濫する問題,単に「ネットに不慣れな人が多過ぎる」だけなら時間が解決してくれるのか,と思わなくもないのだが……。

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{ネット信仰はどこから来たのか}{宮崎文夫}{常磐道あおり運転暴行事件}{一日一文}{情報リテラシー}{社会}{ネット私刑}{正義感}{デマ}{公開}=}(10)

{常磐道あおり運転暴行事件で考えるネット私刑 K#F85E/A-5B28-EA65}

今月10日に発生し世間を騒がせていた常磐道あおり運転暴行事件で,暴行を働き指名手配されていた宮崎文夫容疑者と喜本奈津子容疑者がようやく逮捕された。

当初,テレビニュース番組等では,犯行現場をそのまま捉えたドライブレコーダー映像が容疑者の顔にモザイクをかけた状態で放送されたこともあり,ネット上では例のごとく「犯人探し」が始まった。この過程で,全く無関係な人物が写真付きの実名で犯人扱いされ,凄まじい誹謗中傷を受けるという「デマ事件」が発生した。デマの被害者女性法的措置を検討しているという。

この種のネット私刑リンチ)は何か大きな事件が起こるたびに問題となるが,スマイリーキクチ中傷被害事件が認知されてから10年経っても,多くのネット利用者情報リテラシーがあまりにも幼稚なままであることに驚きを禁じえない。

私もデマ被害者女性の名前が拡散されていく様を見ていたが,明らかに出典の怪しい情報であり,虚偽であった場合のことを少しでも想像出来れば拡散に加担することはありえない。この拡散に加担した全ての者は,真摯に反省するのは当然のことだが,大人ならまず自身の幼稚さを恥じるべきだ。やっていることの悪質さは暴行事件の容疑者と大差ない。

一部,義憤正義感でやったことだからと言い訳する者,顔を公開しなかったマスコミが悪いと責任転嫁しようとする者がいるが,それこその上塗りだ。この程度の幼稚なデマを見抜けない人間が,どの口でマスコミ批判しようというのか,という話でもあるし,無実の人間が理不尽に危害を加えられ,それに自分が加担していたという事実を知った時,怒りを自分に向けられないならそれは「正義」ではなく,ただひたすら自分のための「鬱憤晴らし」に過ぎない。

歴史上,群集が自身の「正義感」と思い込みから悲惨な事件を起こした例は枚挙に暇がない。『十二人の怒れる男』ではないが,小さな違和感に気付き,それに拘り続けると,全く別の事実が見えてくるということがある。「もっともらしく思える情報」ほど少し疑ってみるくらいで丁度いいのだ。

=}(1){あれ}
{ネット信仰はどこから来たのか}{メディア リテラシー}{『狼少年』}{マスコミ不信}{社会}{鳴体論}{アイソーポス}{イソップ寓話}{学問}{公開}=}(10)

{寓話『狼少年』とメディア リテラシー K#F85E/A-7979-8B8F}

イソップ寓話『狼少年』の通称で知られる話がある。

ある羊飼いの少年が,「狼が出た」と嘘を繰り返し,あわてる大人たちをからかっていた。ところがある時,本当に狼が出てしまった。大人たちはもう少年の言葉を信用せず,村の羊が全て狼に食べられてしまった,という話だ。古代ギリシャから伝わる古い話であるため様々な変種があるが,これがもっとも原典に近い内容であるという。

この寓話は一般に「嘘ばかりついていると誰にも信用されなくなる」という教訓を含んだものだと考えられている。中には「少年(だけ)が狼に食べられてしまう」という結末になっているものもあり,教育のために引用されていくうちに,この教訓が分かりやすく強調されるようになったものと考えられる。

しかし,現代人が『狼少年』から学べる重要な教訓がもう一つある。「情報を自ら見極めることを怠っていると事実が見えなくなる」ということだ。つまり,これはメディア リテラシーの教訓でもある。

村の大人たちは,まず情報に対してあまりにも無防備で,情報を鵜呑みにしていた。この話において,少年は情報媒体メディアの役割を果しているが,大人たちはその少年がつく嘘,一種の「デマ」に簡単に騙された。少年からしてみれば,大人たちが騙されやすいからデマを流そうと思いついたわけだ。最初から大人たちが情報に対して十分な警戒心を持っていれば,そもそも少年が嘘をつくことも無かっただろう。

そして,大人たちは少年というメディアに過剰な不信感を抱き,その情報に一切耳を傾けなくなった。結果として,少年が発する「真の情報」に気付かず,村の大切な財産である羊を失なってしまった。大人たちに初めから子供の話を「話半分」で聞いておく常識があれば,少年の嘘に右往左往することも無ければ,完全に無視することも無かったはずだ。この村人たちの情報に対する態度は非常に極端で,現代において「マスコミ不信」を訴える人々に驚くほど共通するところがある。

これは恐らく偶然ではない。この寓話を創作したか編纂したか,あるいは仮託されたであろうイソップことアイソーポスが生きた時代の古代ギリシャでは,市民階級が力をつけ後に「民主主義」と呼ばれる政治形態が芽生えようとしていた。民衆が不確かな情報に左右されてしまうことの危険性は当時でも認識されていただろう。何より,元の話では,少年だけでなく大人たちも被害を受けている。これを単なる「嘘つきへの戒め」と解釈する方が不自然なのだ。

一度『狼少年』を「メディアに翻弄される民衆」を描いた物語として読み直してみると,あまりにも的確で,もはやそう意図された話としか思えなくなる。


=}(1){あれ}
{ネット信仰はどこから来たのか}{マスコミ不信}{社会}{鳴体論}{ネット}{技術}{公開}=}(7)

{「マスコミ対ネット」という虚構 K#F85E/A-7A9C-AE06}

マスコミ不信の文脈で,いまだに「マスコミネット」という構図でものを語っている人が多い。この認識はそろそろ更新した方が良さそうだ。

例えば日本ではインターネット普及率がすでに80%を越えているが,マスコミの受け手とインターネット利用者はネット普及率の上昇とともに重なっていくことになる。

「マスコミ対ネット」という構図は,インターネットが特に専門知識の無い人でも使えるようになってから,社会的に一般化するまでの間に形成されたものだ。この間,おそらく10年程の間にマスコミに嫌悪感を持つ層がネットに拠り所を求め始めた。まだネットが特殊な趣味と見なされていた頃の話だが,この感覚を引きずっている人が多いのではないかと思う。

現在では,旧来のマスコミもネット媒体に積極参入し,層を問わず多くの人がネットを利用するようになっているため,マスコミとネットは対立関係に無いというのが実情だ。むしろネットにおけるマスコミの影響力は増している感すらある。強いて言えば「マスコミ対一部ネット」に実態が変わっているのだろう。「(マスコミの風潮に反して)ネットで支持を集めた」とされる物事は,ネット上でもどちらかといえば少数派が支持していることが多い。


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{ネット信仰はどこから来たのか}{マスコミ不信}{脱真実}{経済格差}{社会}{真実}{鳴体論}{学問}{公開}=}(9)

{マスコミ不信の根底にある経済格差 K#F85E/A-5037-7D44}

いま世界では「マスコミ不信」が重い課題の一つになっているが,どうもこれは「マスコミの信頼性が低下している」という言葉通りに単純な話ではなさそうだ。マスコミ不信とされる現象を観察していると,大きな要素として「不快が生む不信」と「誤解が生む不信」があり,さらにその根底には共通して経済格差という問題があることに気付く。

*不快が生む不信

「マスコミが信用出来ない」と語る人の言動をよく観察してみれば,実は問題が「情報の信頼性」ではない,ということにはすぐ気付くだろう。そういう人は,一方でマスコミの報道を批判しつつ,一方でネットの情報を驚くほど鵜呑みにする傾向がある。その情報源はマスコミ以上に怪しいことが多いが,それに対する批判精神は乏しい。

そういった人々の言動でひときわ面白いのは,「マスコミを使ってマスコミを批判する」ことだ。マスコミの信頼性に疑問を呈しつつ,その根拠としてマスコミが提示した情報を使っていることが珍しくない。ある報道機関を批判するために,その報道機関が出した情報を根拠にするという,笑い話のようなことが実際によく起きているのだ。それも,相手の自己矛盾を突くというような高度な話ではない。ネット情報の多くがマスコミ情報の引用であることに気付かず,本人はネットで得た知識でマスコミに対抗しているつもりになっているのだ。

こういった事例から分かることは,マスコミ不信を語る人の多くが,その言葉とは裏腹に情報の信頼性を重視していないということだ。ではなぜ彼らはマスコミ不信を訴え,ネットを過信するのか。それは,マスコミが発する情報が「不快」で,自分で好きな情報を集められるネットは「快適」だからだ。

マスコミは恐らく,昔からそれほど劣化していない。別の言い方をすれば,もともとマスコミに大した信頼性などない。変わったことがあるとすれば,*マスコミが作り出す虚構を心地良く感じられない人が増えた*ことだ。

「人は信じたいものを信じる」という昔からある指摘が,最近では「ポスト・トゥルース」(ポスト真実)などという言葉で盛んに議論されているが,ここにおいても情報の信頼性やリテラシーの問題は表層的なものに過ぎない。着目すべきは,その奥底にある社会構造の問題だ。

*誤解が生む不信

不信感は,誤解から生まれることもある。報道内容を十分に理解しないまま受け取っていると,マスコミが実際以上に支離滅裂なことを言っているように感じられ,不信感が募っていく。暗闇に不安を覚えるように,理解出来ないものは信用出来ない。

昨年のアメリカ合衆国大統領選挙に関する日本での報道やネットでの反応を眺めていて一つ気付いたことがある。多くの日本人が,大統領選挙についての不徹底な報道によってその制度について誤解し,それがマスコミ不信につながっている,ということだ。

例えば,得票数についての誤解だ。一般投票前の世論調査で,多くの報道機関がクリントン氏の優勢を報じていた。このうち,大きく外れたのは「選挙人獲得数」で,支持率は予想ほどの差ではなかったものの確かにクリントン氏の得票率に近いものであり,結果的に300万票近くクリントン氏がトランプ氏を上回った。

大統領選はあくまでも間接選挙であり,一般有権者からより多く得票した者が必ず勝つという制度ではない。しかし,米国の制度にうとい日本人には「トランプ支持者が多数派だった」とか「トランプ氏は国民投票で選ばれた」という誤解をしている者が少なくなかった。そして,その誤解を積極的に解こうとする姿勢がマスコミ側にも乏しかった。

こうした誤解は,その後の世論調査の信用に響いていた。多くの報道機関や調査会社がトランプ氏の支持率が得票率相応に低いことを報じたが,「マスコミは支持率調査を大きく外した」という誤解に基いてこの報道を受けた人々は,「またマスコミがトランプ氏に不利な情報を捏造している」と解釈した。

*経済格差が殺す共感

マスコミの報道を不快に感じ,誤解してしまう人が増えているのだとしたら,その原因はやはり経済格差にある。経済格差は,作り手と受け手の感覚や意識を引き離し,両者の共感を殺してしまう。

マスコミというのは,一握りの少数者が圧倒的な多数者に語りかける媒体だ。作り手になるには,報道機関に就職するにせよ番組に出演するにせよ,何らかの競争に勝たなければならない。より高等な教育を受けていれば競争に勝ちやすくなるわけで,必然的に業界はエリート社会だ。そこにいる人々が,いわゆる「普通の人」を想像出来なくなっている。

人にものを教えるのが上手い人は,教えられる側に共感出来る人だ。どこで理解につまづいてしまうのか,ということが分からないと人にものは教えられない。

しかし,マスコミの作り手には,生まれた頃から経済的にも文化的にも豊かな家庭があり,「良い学校」に通い,知的な友人や同僚に囲まれて生活してきた人が多い。彼らは,貧しい人間やものを知らない人間のことをよく知らず,自分達の常識を基準として情報を発信してしまう。そこに反感が生まれ,誤解が生まれ,不信が生まれる。それはやがて無知につけこんだ大衆主義の温床となり,社会全体を混乱に陥れる。

こんな世相は絶望的なようだが,もちろん希望もある。取り組むべき問題は経済格差に絞り込める。そして経済格差は解決出来る問題だ。


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