「希哲」は,もともと〈フィロソフィア〉に対する宇田川の訳語。2007年頃から「希哲館」という名称に採用している。
元は西周(にし あまね)による「希哲学」。
後に〈フィロソフィア〉を,「希哲」〈クエソフィア〉と「哲学」〈ソフォロギア〉の併称「希哲学」とした(2014年)。
希哲12年4月19日,「万人希哲」の語を練る過程で,先哲・賢哲……などとの整合性から,人を表わす用法を正式に加えた。これにより,「希哲」は「希知すること」と「希知する者」を表わす語となる。
「希哲」は,もともと〈フィロソフィア〉に対する宇田川の訳語。2007年頃から「希哲館」という名称に採用している。
元は西周(にし あまね)による「希哲学」。
後に〈フィロソフィア〉を,「希哲」〈クエソフィア〉と「哲学」〈ソフォロギア〉の併称「希哲学」とした(2014年)。
希哲12年4月19日,「万人希哲」の語を練る過程で,先哲・賢哲……などとの整合性から,人を表わす用法を正式に加えた。これにより,「希哲」は「希知すること」と「希知する者」を表わす語となる。
デライトの新規利用者を増やすにはどうすればいいか,と考えてくれている利用者達もあまり触れないことに,私自身のアカウントの問題がある。デライト普及にとって最大の障害は何か,といえば,あまりに癖の強い私の輪郭で溢れかえっていること,というのが開発者として常に感じていることだ。自分が訪問者でも入りにくいな,と思う。
実際,最初の頃は,自分の輪郭を目立たせないように,宣伝活動をした後しばらく描き出しを避けるなんてことまでしていた。それはそれで使いこなし方が分かりにくくなるので,あまり作為的なことはしないようになった。だから,初期利用者が入ってきた時は,世の中には変わった人がいるものだな,としみじみ思ったものだ。そうは思いつつ,私も私で失礼な気がして言いにくかった。
利用者達が活発に描き出ししてくれるようになったおかげで,だいぶ入りやすい雰囲気になったとは思う。それでも,客観的に見れば,まだ「変わった人達の集まり」なのかもしれないし,コミュニティとしてのデライトに“参加しにくさ”を感じている人は多いだろう。
デライトは,極力,誰でも好きな時に来て,好きなことを好きなだけ書けるように設計している。もちろん挨拶の必要もないし,他人に遠慮する必要もない。個人情報どころか,名前すらいらない。私自身,狭苦しい「クラスタ」だとか閉じたコミュニティが昔から嫌いだ。
あまり先入観を持たず,まずは触ってみてほしい,というのが開発者としての願いではあるが,もしデライトにコミュニティとしての特徴があるとすれば,自由に知的好奇心・探究心を満たしたい人達の集まりとは言えるかもしれない。「希哲」という言葉をよく使っているように,知的探究心以外のなにものにも囚われたくない人間にとって,機能的にもデライトは最高の場所だ。
希哲12年8月17日から可能な限り毎日付けることにした。
希哲13年7月17日の日記から,「(日付)の日記」という知名で記録することにした。これまでは日付のみの知名で書いていたが,何かと混同の恐れがあった。例えば,後からその日の出来事などについて加えたい記録と,当時の日記として残しておきたい記録の区別がしにくい。
希哲館事業発足時から利用している希哲館事業最初のドメイン名(非公式な暫定ドメイン名としては anoffice.info が最初)。
登録は希哲零年(2006年)10月17日。「希哲」を採用することを考え始めた頃で,「希哲館」の名が定まり希哲館事業が発足するのは希哲元年(2007)11月1日。
後に kitetu.net へ移行(〜希哲7年10月15日)し,現在は kitetu.com への転送用。
先日の一日一文「日本はどう逆転するか」では,あまりにも長くなり過ぎたため最後の見出しを削った。なかなか理解しにくいであろう私自身の政治思想についての余談だ。
面白いことに,私は昔から「極右」の類ではないかと誤解されることが,どちらかというと多い。これは先の文章のように,日本を極大国にしようなどとずっと言ってきたからだろう。
しかし,そんなことを一人で勝手に語っているのだから,私自身は個人主義者以外の何者でもない。私がイメージする国家というのは,昔のヒップホッパーが肩に担いでいた巨大ラジカセみたいなものだ。国家に従属したり逃避したりする「小さな個人主義」ではなく,国家を担いで鼻歌交じりに世界を歩いてしまうような個人主義を「大きな個人主義」と私は呼ぶ。
私が日本という国家を重視しているのは,それが世界を変える有効な手段だと感じているからだ。
日本で知識産業革命を起こし,日本が極大国になれば,かつてのイギリスがそうであったように,世界中の国々にその技術や文化を伝えることが出来る。実際,平成バブル期までの日本は,世界の経営学に大きな影響を与え,「日本に学べ」という風潮を作った。
「成功」さえすれば,世界の注目を集めることが出来,世界の変革を主導することが出来る。希哲館事業におけるジパング計画は,その最初の段階というわけだ。
希哲館の目的は,まず「希哲日本」という成功模体を創り上げ,その後は国際連合に代わる国際機関として「希哲」の理念に基く新国際秩序を形成することにある。知性と反知性の分断を乗り越え,万人が知による繁栄と平和を共有出来る世界だ。
私は一人で「希哲紀元」という独自の紀年法を使っているが,これはキリスト教の西暦でもなく,天皇の元号でもないという,端的な独立表明でもある。中立性のために必要であれば,平和的・合法的にバチカン市国のような小さな独立国家を持つ計画まで準備している。
ここまで視野を拡げれば,私の政治思想が左翼だの右翼だの,リベラルだの保守だのといった既成概念の域をはるかに越えたものであることが分かるだろう。
私の政治思想は,「宇田川主義」としか言いようがないほど独自的で,それゆえに常に孤立しており,結果的に誰よりも中立を保っている。ノンポリというわけでもなく,波風を立てないために黙っているわけでもなく,日和見でもない,言動は明らかでありながら,あまりにも独特であるがゆえに中立なのだ。
この類稀な中立性は,デライトのようなサービスを運営するにあたっても重要だと感じている。
先の米大統領選挙を巡っても SNS の中立性に疑問が呈されたが,ほぼ全てのサービス提供事業者は,こうした点において明確な解決策を持っていない。政治について語らない,だけで中立を装える時代はとっくに終わったというのに。
特にデライトのような高機能メモサービスは「知」を扱うものだ。そのサービスの開発者・運営者が,政治,つまり社会のあり方について何の見解も持っていないということがあっていいだろうか?持っていて黙っている,隠しているのは信頼に足る態度だろうか?
この行き詰まりに明解な解答を出せる世界で唯一のサービス,それがデライトだ。ばりばりに語っているのに,ここまで“中立”な政治思想は世界を見渡してもまずない。私が政治を語ることを全く恐れない理由だ。ある種の「オープンソース」とも言えるかもしれない。
また長くなり過ぎないようにほどほどにして,この宇田川主義の全体像や成り立ちについては,また後日書いてみたいと思う。
折角なので,昨日の一日一文で書いた「希哲館」命名の思い出話を続けてみよう。
14年ほど前,当時の私が持てる知識と理想の全てを注ぎ込み,名付けたのが「希哲館」だった。その後,私は膨大な造語や翻訳語を考案し,様々な物事の名前を考える営みを「最小文学」とすら呼ぶようになった。しかし,「希哲館」を越える名前が出来たと思えたことはない。そういう意味では私の最高傑作だ。
名を体を表すとも言うが,ある名前が良いかどうかは,それが指し示す物によって変わるものだ。醜いものにどれだけ表面的に美しい名前を付けても,それは良い名前とは言えない。
後に「希哲館」と呼ばれることになる“それ”は,デライトの基礎にもなっている輪郭法を武器に,知による産業革命と知を共有する民主主義の確立を目指す機関として構想されたものだ。それは在野の自由と力強さを持ちながら,未来の公共を担う大きさをも兼ね備えていなければならない。これに対する「希哲館」以上の名前はいまだに見つかっていない。
さて,「希哲」の部分に関しては昨日の一日一文で書いた通りだが,この「〜館」の部分にもそれなりのこだわりがあった。
「希哲院」では気取り過ぎ,「希哲屋」「希哲軒」「希哲亭」では気軽過ぎ,「希哲楼」では派手過ぎ,「希哲庵」では地味過ぎ……最終的に,「希哲館」以外では「希哲堂」や「希哲荘」などが有力候補だった記憶がある。
「〜館」は,近世までは藩校(明倫館・造士館……)などによく見られ,近代以後は大使館・公民館・図書館・博物館・美術館など,交流や文化に関わる施設に広く使われるようになった。明治時代の「鹿鳴館」,バグダードの「知恵の館」(バイト・アル=ヒクマ)のように歴史的な事業を連想させるものでもあった(後に薩摩藩の「集成館」にも似ていることに気付き,集成館事業になぞらえ「希哲館事業」という表現を使うようになった)。「館」が持つ歴史的な用法や現代におけるイメージを総合して,これが最も思い描いているものに近いと考えたわけだ。
……「希哲館」に関する話は,まだまだ書き尽くせそうにない。また気が向いたら続きを書こう。