昨日の日記を付けながら,デライト累新は希哲館累新でもあり,「千年の集約」でいうところの累新に,希哲館黄金期は近代化の過程に相当することに気付いた。
最近,こんなことをぼんやり考えながら時が過ぎてしまうことが多い。脳がよほど情報を整理しようとしているのか,少し思考に引っかかりを感じて手を止めると,そのまま何時間も経っていたりする。そのせいで開発も少し停滞気味だ。
経験上,こういう時は「待つ」以外にこれといった対処法が無いことは分かっているが,流石にそろそろ手を動かしたい。
そう思いながら,デライト公式で希哲館訳語についてのツイストを書いていた。相変わらず,独自性という言葉も陳腐に感じるほどの異形ぶりに,自分は日本の中心部にありながらどんな環境で育ってきたのだろうと改めて感じていた。
あるツイストを書き終えた瞬間、なぜか,幼少期にかくれんぼで大人達を困らせた記憶が蘇えってきた。希哲館事業というのは,自分にとってずっとそんな「わくわく」する悪戯だったのかもしれない。一夜革命なんて,やたら壮大なだけでまさにかくれんぼではないか。久しぶりに「三つ子の魂百まで」という言葉を思い出した。
急に童心にかえったような気分になり,すっと肩の力が抜けてなんだか笑えてきた。
気付いてみればこんな単純なことに今まで気付かなかったのか,気付いたことを忘れているのか,灯台下暗しということもあるから分からないが,変に嬉しい発見だった。
これだから思索はやめられないのだろう。