{開発}{外来語}{英語}{カタカナ外来語}{日本語}{一日一文}{デライト}{外来語翻訳}{カタカナ語}{明治時代}(53)

{日本の第二次大翻訳時代に向けて K#F85E/E74C-9D63}

そろそろ希哲館翻訳事業についても何か書いておこうと思いデライトくぐっていると,6年以上前に書いた懐しい文章(「翻訳とは何か」)を見つけた。当時の私の「第二次大翻訳時代」への意気込みが伝わってくる。

当時はまだそれほど蓄積が無かった希哲館訳語も今や「日本語史上最大の翻訳語体系」と称するまでになり,自ら開発するデライト翻訳語研究にはこれ以上ない通類ツールになっている。ここで改めて,第二次大翻訳時代への思いを記しておきたい。


日本にも「大翻訳時代」と呼ぶべき時代があった。言うまでもなく,膨大な外来語翻訳された江戸時代後期から明治時代にかけてのことだ。この時代に生まれた翻訳語現代日本語に欠かせないものになっている。

そんな日本語も,どこで何を間違えたのか,カタカナ外来語で溢れかえるようになってしまった。時代の流れが速いから翻訳語なんか造っても意味が無い,とやってもみずに言う者が多い風潮に逆らって,私は翻訳活動を続けてきた。

そうしていると,「何で翻訳語なんか造ってるの?」と言われたりする。今我々が当たり前のように使っている日本語にどれだけの翻訳語が含まれているか,知らないわけではないだろう。ではカタカナ語満足しているのかというと,「カタカナ語の氾濫」はたびたび社会問題のように語られる。それでも,「なら翻訳してやろう」という運動は無いに等しい。

昔から,独自に翻訳語を造ってみようという人はいて,私もいくつか例を知っているが,その全てが世間には全く知られていない。そういう運動を誰かが始めてみても,一向に火が付かないのだ。そして自然消滅のように消えていく。これは面白いといえば面白い現象だ。

私もその運動を始めた一人だが,翻訳語についての話というのは本当にウケが悪い。ブログ記事のようなものを書いても握接アクセスが集まることは無いし,Twitter のような所でつぶやいてみても反応はほぼ無い。まさに「しーん」という感じだ。

ただ,私はそれもこの仕事のやりがいだと思っている。いかに現代日本人にとって外来語翻訳というのが難しいことか,それを思い知らされるほど,その難しいことをやってこれたことに対する自負誇りも大きくなる。

これからも希哲館は,この日本知識産業革命実現し,日本語英語に代わる「世界の言語」とすべく翻訳語整備を進めていく。そして,世界史を変えた「知恵の館バイト・アル=ヒクマにも劣らない翻訳事業にしたいと思っている。

{希哲元年}{}{未来}{一日一文}{デライト}{文化}{明治時代}{希哲館}{希哲15年5月の一日一文}{有力候補}(77)

{続・「希哲館」の由来 K#F85E/E74C-7DB0}

折角なので,昨日の一日一文で書いた「希哲館命名思い出話を続けてみよう。

14年ほど前,当時の私が持てる知識理想の全てを注ぎ込み,名付けたのが「希哲館」だった。その後,私は膨大な造語翻訳語考案し,様々な物事の名前を考える営みを「最小文学」とすら呼ぶようになった。しかし,「希哲館」を越える名前が出来たと思えたことはない。そういう意味では私の最高傑作だ。

名を体を表すとも言うが,ある名前が良いかどうかは,それが指し示す物によって変わるものだ。醜いものにどれだけ表面的美しい名前を付けても,それは良い名前とは言えない。

後に「希哲館」と呼ばれることになる“それ”は,デライト基礎にもなっている輪郭法武器に,知による産業革命知を共有する民主主義確立目指す機関として構想されたものだ。それは在野自由力強さを持ちながら,未来公共を担う大きさをも兼ね備えていなければならない。これに対する「希哲館」以上の名前はいまだに見つかっていない。


さて,「希哲」の部分に関しては昨日の一日一文で書いた通りだが,この「〜館」の部分にもそれなりのこだわりがあった。

希哲院」では気取り過ぎ,「希哲屋」「希哲軒」「希哲亭」では気軽過ぎ,「希哲楼」では派手過ぎ,「希哲庵」では地味過ぎ……最終的に,「希哲館」以外では「希哲堂」や「希哲荘」などが有力候補だった記憶がある。

「〜館」は,近世までは藩校明倫館造士館……)などによく見られ,近代以後は大使館公民館図書館博物館美術館など,交流文化に関わる施設に広く使われるようになった。明治時代の「鹿鳴館」,バグダードの「知恵の館バイト・アル=ヒクマのように歴史的な事業を連想させるものでもあった(後に薩摩藩の「集成館」にも似ていることに気付き,集成館事業になぞらえ「希哲館事業」という表現を使うようになった)。「」が持つ歴史的用法現代におけるイメージ総合して,これが最も思い描いているものに近いと考えたわけだ。

……「希哲館」に関する話は,まだまだ書き尽くせそうにない。また気が向いたら続きを書こう。

{『希哲日記』}{日記}{デライト}{新生デライト}{希哲14年12月の月記}{千年の集約}{意識の変化}{デライト累新}{旧デライト}{新デライト}(22)

{希哲14年12月29日の日記 K#F85E/E74C-5C93}

27日活動統一をもって「デライト完全集約」として,これ以後のデライトを「新生デライト」,ここまでの一連の出来事を「デライト累新」と呼ぶことにした。

旧デライトに対して単に「新デライト」と呼ぶのも味気ないだろう。何をもって新生とするかは難しいところなので「意識の変化」ということにしておく。

ふと,これからデライトでやろうとしていることが世界史でいえば知恵の館あたりから累新近代化までに相当する「千年の集約」でもあることに気付き少し気が重くなった。新近代化というのは大分前から語っていることだが,それだけ具体化が進んだということなのだろう。

31日振り返り

{デライト}{千年の集約}{希哲14年12月29日のツイスト}{希哲14年12月29日}{累新}{ツイスト}{知恵の館}{不思議}{正気}{相当}(12)
{日本語}{希哲館}{累新}{大翻訳運動}{希哲14年3月5日のツイスト}{希哲14年3月5日}{ツイスト}{知恵の館}{第二次大翻訳時代}{第一次大翻訳時代}(13)
{}{知恵の館}{希哲館源流}{素描}(4)
{知恵の館}

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