一日休んだだけで胃腸の調子もけろっと治り,絶好調だった。疲労による免疫力低下はあれど,直接の原因は食中毒かもしれないと思っていたので良かった。自覚していたよりずっと疲労の蓄積があったらしい。
37歳になったが,昨日まで36歳だったというのが不思議な感じだ。
特にデライト以後,1年が3年はあるように感じる密度なので,まだそんなものか,という気がする。これから成し遂げようとしていることを考えると,子供みたいな年齢だなとすら思えてくる。
朝から絶好調だった。開発もよく捗った。最近,一応7時30分頃には目が覚めるが,ちょっとした家庭の事情もあり,だらだらして10時過ぎから活動を始めることが多かった。今日は久しぶりに早起きしてきびきび過ごせた。これを継続出来れば理想的だ。
やはり,この一週間における心境の変化の分析から,「新生デライトの完成」と「デライトの完全な成功」を切り分けて考えるようになったことが大きい気がする。これまでは心の全体で適度な緊張感を保つことを意識していたが,特に第四次宣伝攻勢以後,これが難しくなったように感じていた。宣伝攻勢開始当初は力み過ぎたような気がしていたが,利楽してみると今度は弛み過ぎるような気がしていた。
それからこれまで,決して悪くはなかったが,思い描いていたように絶好調な日はほとんど無く,調子に波があった。
利楽していいことと緊張感を持つべきこと,極端な二つの問題意識が混在している状況で緊張感を等分しようとすると,必ず過不足が生じる。結果として,疲れ過ぎたり弛み過ぎたりする。要は,心の利素配分の問題だ。
依然として新生デライトへの期待は大きいが,それはそれとして,デライトの完全な成功には予断なく臨むべきだろう。新生デライトの完成はあくまでも通過点だ。その先を意識するようになったことで,新生デライト開発も適度に引き締められている。
この時期にあって非常に大きな気付きだが,一日一文を書いていなければこれも無かったのかと思うと不思議な気分だ。
昨日,脳爆発気味だったせいか,少しぼーっとしてしまった。それなりに収穫も大きかったので仕方ない。
ここ一週間ほど,また少し心境の変化を感じている。やはり「デライトの歩み」のせいだろう。あの文章を書きながら,これまでの達成の重みをより強く感じるようになった。それは良いが,これからの達成もより重く感じるようになった。
サービス経営の観点から言えば,デライトの問題はいま,用者数が伸びないことだけに絞られている。それ以外は限りなく理想に近い状態にある。つい先日まで,この問題は新生デライトの完成が解決するだろうとほぼ確信していた。つまり,新生デライトの完成がデライトの完全な成功そのものだと思っていた。そしてそれは,希哲館事業が未曾有の成功を収めることを意味している。
ただ,これまでの歩みを振り返っているうちに,少し不安になってきた。わずか15年の事業で,そんな成功がありうるのだろうか。事の大きさを考えると非現実的な早さだ。成功の大きさに苦労が見合っている気も全くしない。作り話のようなとんとん拍子だ。
書きかけではあるが,あの文章で書いたことが,思いがけず自分を動揺させている。
理論や技術として完成させられるかどうかは時間の問題だと考えていた。本当の問題はその先にあった。地動説にせよ進化論にせよ,世界の見方を大きく変える考えには無理解や反発が付き物だ。常識を越えた考えであればあるほど,その壁は大きくなる。(後略)
確かに,最初の葛藤に陥いった原因は,輪郭法を理論や技術として完成させることの難しさではなかった。常識を変えることの難しさだ。これを現状に当てはめれば,新生デライトの完成を過信してはいけない,ということになる。
だからといって,やることが大きく変わるわけではない。一日一文に想定以上の時間を割いたのも,この理屈でいえば正しかったことになる。ただ,心構えは少し変える必要があるのかもしれない。