(ひとそうどう)
{私の成功観 K#F85E/0758-C044}
宇田川浩行長期安定体制をじっくり構築するため,6月・7月は半ば夏休み気分で過ごしていたが,8月からは気持ちを切り替えてデライトの完全な成功・希哲館事業の成功に向けて調子を上げていきたい。
そんな8月最初の一日一文の題材には,私自身の成功観についてが相応しいだろう。そもそも私自身がこの希哲館事業で何を目指しているのか,改めて,これまで以上に明確に記しておきたい。
さて,「デライトの完全な成功」というのは希哲館事業における目下最大の課題だ。
人気があるサービスが必ずしも幸福なサービスではない,というネットサービス開発・運営の難しさが旧 Twitter の騒動で広く知られるようになった。もっとも,非業界人にも分かりやすくなっただけで,全く問題を抱えていないサービスはほぼ存在しないというのが業界の実態だ。
デライトは,集客に成功していない点を除けば,あらゆる意味で極めて上手く行っているサービスと言える(デライトの不完全な成功)。これが「デライトの完全な成功」という表現を多用している理由だが,ではなぜデライトは集客に成功していないのだろうか。よく考えてみればそう不思議なことでもない。
多くのサービスは当然ながら営利目的なので,集客を第一に考える。すぐに利益が出なくても「金の卵」である利用者数が伸びれば投資は集まる。その過程で,無理な資金繰りをしたり,人間関係や権利関係でしがらみを作ったり,いわゆる技術的負債を積み上げてしまったり,構想として小さくまとまってしまったりする(これが日本人に一番多い)。そうしなければ生き残れないからだ。デライトの場合,幸運なことに,そうしなくても生き残れてしまった。集客を最後に回せた稀有なサービスなのだ。
デライトとその完全な成功が何のためにあるのかといえば,希哲館事業の成功ためだ。デライトの背景としての希哲館事業については「デライトの歩み」にもざっと書いたが,日本でかつてのイギリス産業革命を越えるような知識産業革命を起こして米中を大きく凌ぐ極大国(ハイパーパワー)に成長させ,日本を盟主とした自由民主主義の究極形(希哲民主主義)によって世界中の権威主義体制を打倒,知によって万人が自由と平和と富を享受出来る世界を作り上げることが希哲館事業の目的であり,最終的な成功だ。
これが実現出来なければ,世界一の大富豪になろうが自分は「失敗者」である,というのが私が17歳頃から引きずってきた呪縛のような成功観だ。
{X(旧 Twitter)はなぜライトモードを捨てたかったのか K#F85E/0758-FB71}
宇田川浩行昨日,X(旧 Twitter)のダークモード以外の配色モードを廃止するとイーロン・マスク氏が表明し,反対意見が殺到するという騒動があった。結局,ダークモードをデフォルトにしてライトモードも一応残すという方向に軟化させたようだ。
デライトでは,今年2月にダークモード(ダークテーマ)対応を実現したばかりなので,個人的に色々思うことがあった。前回予告した KNS についての文章に時間がかかり過ぎているため,今回の一日一文はつなぎとして,開発者の視点からこの騒動の背景について書いてみたい。
デライトは元々明るい配色,いわゆるライトモードのみでやってきた。大きな理由の一つに,イメージの問題がある。白背景を基本としたデザインにはやはり明るく清潔な印象がある。サービスがメディアで紹介される時など,イメージ戦略を考えるとこれは馬鹿にできない。
個人的には黒背景が好きだが,この種のネットサービスではどうしてもアングラ感が出てしまう。背景色を微かな灰色にすることも試したが,白背景と比べるとちょっとくすんだような,地味な印象になってしまう。なるほど,ダークモードが流行しても大手サービスの多くがデフォルトで眩しい白背景を採用している理由はこれかと思ったものだ。
今年2月,満を持してダークモード対応を完了し,私もテストがてらダークモードを常用していた時期がある。最初は新鮮さもあって,それこそダークモードだけでやっていけそうな気がしたが,慣れてくると,眠気が強くなったり,いまいち調子が上がらないことに気付いて,結局ライトモードを常用する生活に戻った。
ライトモードもダークモードも,どう感じるかは個人差や環境差によるところが大きい。どちらかが万能だと思ってしまうのは,単純な経験不足なのだろう。今回の騒動は,ソフトウェア開発におけるマスク氏の経験不足と,新しいロゴに象徴される偏った趣味に起因する出来事とも言える。
ただ,もう少し踏み込むと,マスク氏をこの拙速に追い込んだ X の切実な開発事情が見えてくる。
配色モードの追加や維持というのは,見かけよりずっとコストがかかる。例えば,外観に絡むような機能追加をした時,それぞれの配色モードで問題が生じていないか確認する必要があるし,問題があれば個別に調整する必要がある。そして,このコストは,既存のコードの保守状況が悪ければ悪いほど,変更の程度が多大であればあるほど高くなる。
{希哲17年7月2日の日記 K#F85E/0758-A9B7}
宇田川浩行昨日の日記にも書いたように,ほとんど世界史上最大の成功と言える「デライトの完全な成功」を果すには環境がぬるま湯過ぎるのかもしれない,とちょっとだけ考えていたところで,Twitter では閲覧制限を巡って大騒動になっていた。騒動の大きさは過去最大級かもしれない。
Twitter 危機は,サービス開発の難しさを非業界人にも分かりやすくしてくれたという点でやはり意義深いものがある。なぜデライトが「完全な成功」と「不完全な成功」を概念化しているのか,ぐっと理解してもらいやすくなった。
Twitter のように人気は集めていても問題を山ほど抱えていて,経営者に「地獄」と形容されるようなサービスもあれば,デライトのように閑散としていてもほぼ完全に理想的な状態にあって開発者・経営者にとっては天国そのものというサービスもある。考えてみれば,「完全な成功」と言えるサービスなんて一つも思い浮かばないし,それに限りなく接近しているデライトの到達点がいかに高いかということでもある。
ほとんどのサービスは集客の代償として様々な問題を抱え込んでしまうわけで,集客をここまで後回しにしてこれた,それだけ環境に恵まれていた,というのがデライト経営の特異性であり,優位性なのだろう。
{希哲16年11月6日の日記 K#F85E/E74C-5CA2}
宇田川浩行非常に収穫の多い気分転換として輪郭整備に時間を割くようになったが,やっているうちに,むしろこれこそ今やるべきことなのではないかという気がしてきた。
もともと輪郭量に対して輪括量・描写量が少な過ぎるという問題があったが,優先順位の問題でなかなか本格的な輪郭整備は進まなかった。第二次快調期を経て描出効率も発信能力も飛躍的に向上し,十分な時間対効果が期待出来るようになっている。
もう一つ,他用者への波及効果が意外と大きい感触がある。やはり,私自身が活発に描出しているかどうかで他用者の賑わいも違う気がする。この用者の少なさで一番の重用者なので,当然といえば当然だ。
開発に没頭していた期間,大きな収穫があっても用者の反応に乏しいということがよくあり,違和感を覚えていた。一つの理由として,そういう時期は待欄が進捗記録などの事務的な記録で埋まりがちで,献典として面白くないということがあったのかもしれない。
先日の日記では,Twitter の騒動を利用することに関して消極的な見方をしていたが,よく考えると,そもそも「Twitter ではない Twitter のようなもの」が失敗してきた理由は,Twitter との差別化が出来ていなかったからだ。この場合,KNS としてのデライトの革新性は,障害ではなく近道として機能するかもしれない。積極的に利用することを考えるべきか。
面白いのは,デライトのキャズムについて最近考えていたこととの対比だ。個人知識管理通類の用者層は意外と保守的であり,大きな変化を望んでいない人が多い。それはメモと自己保存欲求の相性の良さから来ているのではないか,と考えていた。先述の用者の反応に乏しい問題にも通じるが,新機能を追加しても意外と喜んでもらえない。こうした層向けには,印迫よりも安心感を与える施策が必要なのだろう。
この二方面への売り込み方を上手く使い分け,組み合わせることで新しい道が開けそうだ。