{デライトの不完全な成功 K#F85E/0758-DF01}
宇田川浩行{デライトの完全な成功 K#F85E/E74C-511E}
宇田川浩行{知番は知の IP アドレス K#F85E/E74C-7BE5}
宇田川浩行dlt.kitetu.com
}{デライト2周年}{難}{一段落}{一編}{研究}{話}{今}{形}(600){デライトの歩み K#F85E/E74C-09D2}
宇田川浩行デライトは,今年の2月13日に2周年を迎えたばかりの若いサービスだ。しかし,その背景には長い長い歴史がある。詳しく書くと書籍数冊分くらいにはなる話だ。デライトの完全な成功を目前にした良い頃合いなので,駆け足で振り返ってみたい。
輪郭法の閃き
技術としてのデライトは,私が17歳の頃,主に哲学と情報学への関心から「輪郭法」を閃いたことに始まる。2002年,もう20年前のことだ。デライトにおける輪郭法の応用については,「デライトの使い方の考え方」で出来るだけ簡単に解説したつもりだが,本来の輪郭法は,“輪郭という概念を中心にした世界の捉え方”であり,哲学用語でいう「弁証法」に近い位置付けの概念だ。
このアイデアが,哲学上の理論に留まらず,極めて実践的で,極めて強大な技術になりうることに気付くのに時間はかからなかった。これを応用することで,計算機科学における長年の最重要課題を解決し,知能増幅(IA)技術の実用化につなげることが出来る(参考)。すでに IT 産業の勢いが明らかだった当時,これは“世界史上最大の成功”と“知識産業革命”への道が開けたことを意味していた。
さらに,アメリカ同時多発テロ事件が起こって間もない頃だ。後の英米政治危機,世界に広がる社会分断,SNS の暴走,そして目下のウクライナ侵攻を予感させる事件だった。
あらゆる争いの背景には,世界の広さに対する人間の視野の狭さと,それによる“心の分断”がある。当時から私はそう考えていた。我々は,世界の一部分をそれぞれの立場から見ているに過ぎない。立場が違えば見える世界も違う。その衝突を回避出来るとすれば,個々人の世界に対する視野を広げるしかない。輪郭法の応用技術にはその可能性があると感じていた。この考え方が現在の KNS という概念につながっている(参考)。
葛藤
この閃きは止まるところを知らなかった。17歳の少年の人生観も世界観も,何もかもを瞬く間に作り替えてしまった。この閃きをどこまで大きく育てられるか,それだけを考える人生になった。適当に金に換えることも出来たかもしれないが,世界にかつてない平和と豊かさをもたらす鍵を手に入れたようなものだ。中途半端な売り物にすることなど,現実には考えられなかった。能う限り最高の状態で世に出さなくてはならないと思った。
もちろん最初は,とんでもない宝くじに当たったような気分だった。天にも昇る心地とはこのことだろう。どんな人生の喜びも,この喜びには勝るまい。少しばかり時間が経ち,冷静になるにつれ,呪いのような重圧に苦しむようになった。
{希哲16年5月9日の日記 K#F85E/E74C-81EE}
宇田川浩行昨日それなりに精神力を使ってしまったので,半休にした。事務的な用事を片付け,組計調整も出来,デライト宣伝でも良い手応えがありと充実していた。
引き続き6月の新生デライト完成を目標とするが,不測の事態も想定し7月まではゆとりを持たせることにした。いずれにせよ,新生デライトの完成が完全なデライトの成功に直結する状況だ。十分な宣伝をしつつ,この期間で確実に新生デライトを完成させられるかどうか。その時間配分に全てがかかっている。
黄金週間の総括は,ちょっとした時間でまとまりそうにないので,いったん断念することにした。そのうち振り返ることもあるだろう。
これまでの献典の課題を解消するような新しい文体が出来たこと,それにより自分の中でデライトの現実感がぐっと増したこと,その背景に希哲館訳語なども含めて希哲館事業構想全体の円熟があること,デライト一夜革命に向けた本格的な「伐木」が始まったのだということ,等々,短い間に色々な思いや気付きがあった。いま文章にするには複雑過ぎる。
初めてこの心境の変化に気付いたのは夢の中だった。あのひどい悪夢は,大惨事が起こる直前まで,最近の変化をこう前向きに考えるようになったという良い夢だった。潜在意識が心境の変化を敏感に捉えていたのだろう。
一日一文の新しい文体は自然にツイストにも影響していたが,今後は一日一文・ツイストの文体を意識的に統一することにした。これまで,いわば「深層の文体」中心でたまに「表層の文体」を使う程度だったが,「中層の文体」が加わり,これからは表層・中層の献典の厚みが増していくだろう。これこそ「伐木」だ。
{希哲16年4月30日の日記 K#F85E/E74C-F08C}
宇田川浩行この日も調子がやや不安定だった。というより,頭が冴える時間帯が遅い方にずれてしまっている。一昨日以来,遅い時間になって一日一文の執筆がやたら捗る,ということが続いている。
一日一文ではデライトの本質に迫る良い文章が書けていたが,24時を過ぎたところで生活律動矯正のため中断した。時間を惜しむ内容でもなくなってきたので,じっくり書くことにした。明日はちょうど定休日なので調子を整えたい。
第四次宣伝攻勢は想像していたより静かな始まりだが,デライトの成功にはむしろぐっと迫った感覚がある。一昨日,昨日,今日と,滅多に書かなかった一般向けのまとまった文章を書いてみたことで,大きな心境の変化が起こっているようだ。デライトについて深く理解してもらうための手段の一つとして書き始めたものの,自分自身がデライトを過小評価していたことに気付かされた。
これまでの,希哲館訳語などを多用した独特な文章では,全体的に浮世離れし過ぎて,デライトもどこか現実感のないものに見えてしまっていたのだろう。それが,こう平易な文章で表現してみると,デライトが実現していることのとんでもなさが,現実と地続きにあることのとんでもなさと相俟って,一回りも二回りも強烈に感じられる。
いまデライトでは,例えば世間で騒がれているイーロン・マスクの Twitter 買収どころではないことが起こっているわけだ。この,世にも奇妙な静けさが,かえってデライトの成功のイメージを増幅させている。それこそ一夜城のように。
{第四次宣伝攻勢に向けて K#F85E/E74C-668D}
宇田川浩行デライトは,黄金週間初日となる明日29日,4度目の宣伝攻勢(第四次宣伝攻勢)を始める。これを機に,中断していた「一日一文」の日課も再開することにした。
デライトはいま,包括的な改良構想によって「新生デライト」に生まれ変わろうとしている。今回の宣伝攻勢のコンセプトは“新生デライト開発実況”だ。この一日一文も含めて,開発状況や開発者の考えなどについて積極的に発信していきたい。
森を見て木を見る
3度の宣伝攻勢から得た教訓は色々とあるが,4度目の宣伝攻勢を目前にしてつくづく感じていることは,結局,やってみなければ分からない,ということだ。
ソフトウェア開発をやっていると,ここが悪い,あそこが分かりにくいなどといったことばかり考えてしまいがちだ。とりわけデライトは新奇に見える代物なので,開発者も利用者も,“デライトの問題点”について考え込み過ぎる嫌いがある。
問題点を地道に改善していくのは当たり前のことだが,問題点ばかり見ていると,「問題があることが問題」であるかのような錯覚に陥りがちだ。問題のないソフトウェアなど存在しないので,これは「木を見て森を見ず」の罠でもある。広く使われている全てのソフトウェアは,それぞれに問題を抱えながら,それぞれの役割を果たしている。その全体像を見ずに問題の大きさを正しく見ることは出来ない。
そもそも,使いやすい UI,分かりやすい文書……などと全てを兼ね備えた優等生的なソフトウェアが世の中にどれだけあるだろうか。使いにくかろうが分かりにくかろうが,バグだらけであろうが,“使う必要”があれば使われる。それが現実だ。ツールも文書も,必要ならユーザーが作り始める。昔からそうやってソフトウェアは共有されてきた。
そこに革新性があればなおのことだ。誰でも戸惑いなく使える革新的なソフトウェア──そんなものは夢の中にしか存在しない。デライトがそうであれば,私はとっくに世界一の有名人にして世界一の大富豪になっている。冷静に考えれば馬鹿馬鹿しい話だが,知らず知らずのうちにそれに等しいことを考えてしまうのが認知バイアスの怖さだ。
最大の課題
{希哲15年11月9日の日記 K#F85E/E74C-BE57}
宇田川浩行{希哲館創立14周年と近況 K#F85E/E74C-8335}
宇田川浩行この希哲15年(2021年)11月1日で,希哲館事業は14周年と15年目を迎えた。なんだかよく分からない奇跡のような偶然の連続により,希哲館史上最高の環境でこの時を迎えることが出来た。
あとはデライトを成長軌道に乗せれば希哲館事業の成功はすぐそこだ。そのデライトの成功も,まず心配ないという状況にある。油断大敵ということで楽観的な展望はあえて持たないようにしている私でも,気の持ちように困ってしまうほど,今の希哲館事業は希望に満ち溢れている。
「幸せ過ぎて怖い」というのはこのことだろう。ここまで来ると今後起こることへの漠然とした不安が増してくる。これ以上何が起こっても,今ほど嬉しいことは少ないだろうし,何かとんでもない凶事の前触れなのではないかと考えてしまう。偶然に見えて,実は理に適っていることの方が多いのではないかという考えを持つようになっていたところで,それを吹き飛ばすような出来事があり,また分からなくなってきた。
デライトには「よろこび」(delight)という意味が込められているが,この幸運の象徴として長続きしてくれることを願うばかりだ。