貴重なご意見を頂いたので,開発者がデライトの考え方について文章を書きました。他の方の参考にもなるかと思いますので紹介しておきます(後ほどいくつか追加します)。
https://dlt.kitetu.com/?fg=KNo.F85E/A-E74C-FF6E
貴重なご意見を頂いたので,開発者がデライトの考え方について文章を書きました。他の方の参考にもなるかと思いますので紹介しておきます(後ほどいくつか追加します)。
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最近、こういう1ツイスト(デライト連動ツイート)でデライトの宣伝文句を色々実験してみています。コピーライティングの練習みたいなものですね。一流のコピーライターならデライトをどう表現するんだろう、とよく考えます。
スマホでは一つ一つの輪郭が見やすく、PWAにして使っています。
でも輪郭を文中に埋め込む手間を考えると、PCから書き込んだ方が簡便で、思っていることを書き記すのにスマホは不便です。
スマホの場合は、輪郭のことをいったん考えずに書きなぐるべきなのかな。
デライトを使っていると、この量がいかに質に寄与するか実感出来ます。小さな輪郭群が新しい輪郭を描き出し、その輪郭がまた新しい輪郭を描く……この繰り返しで情報はどんどん組織化され、知識は巨大な一つの体系に育ちます。微小な餌を大量に食べて大きくなるクジラのようです。
構造化されていない情報(単純な文字列等)の文字数の多さ(長さ)がその情報の価値と無関係なのは明らかです。長文が短文より常に価値あるものとは言えません。しかし、ここでいうページ数とは構造化された情報の各点の多さです。いわば「解像度」であり、質につながる量の話なのです。
さて、ここまで散々「ページ数」の差について語ってきていますが、その重要性にピンと来ない人もいるかもしれません。1万ページよりも100万ページ扱えることに価値があると言えるのはなぜでしょうか。一般論として情報の価値は数量では決まりません。もちろん、「質より量」という話ではありません。
Wikipedia 英語版の記事数は600万以上だそうです。世界にはそのくらいの特筆性を持った事物があるということです。そのくらいのページを個人知識管理サービスで育てるダ・ヴィンチのような博学者(ポリマス)が現れ、ルネサンスのような文化が花開くことをデライトは期待しています。
ようやく N10K 問題の話に入ります。不快にさせてしまった方には申し訳ないですが、これを書いた開発者は、計らずも問題提起となったことに非常に大きな意義を感じています。いま誰かが投じておくべき一石だったのだろうな、と思います。この感覚を共有して頂けるように頑張って書いていきます。