私も含めて OSS 愛好者達が間違えがちなのは,我々が思っているほど「自由」を求めている人は多くない,ということ。ほとんどの人は「そこそこの自由」で満足で,政府や企業からの完全な自由なんて求めていない。そんな自由のためにややこしいものは使わない。
{ややこしい K#F85E/E74C-3D95}
宇田川浩行{ツイスト K#F85E/4686-FAAB}
宇田川浩行希哲12年1月17日,デルンにおける分散型マイクロブログ互換の描出として定義。Twitter におけるツイート・Mastodon におけるツートに相当する。
将来的に変更の可能性があるが,現時点では Mastodon 互換で,文字数制限等もこれに準じる(500文字)。編集は可能とするが,性質上,マイクロブログに投稿されるのは最初のみ。
ツイストには「より合わせる」といった意味があるが,ストリング(ひも,文字列)にもかかっていて面白い。単に異なるサービスをより合わせるだけでなく,描出をより密接に結びつける効果もある。
{自由 K#F85E/046C}
宇田川浩行「自由」(じゆう)とは,「自らに由る」の意である。一般に liberty や freedom の訳語であるが,宇田川はその日本語としての意味に着目し,self-cause(causa sui,自己原因)に通ずる第三の意味を考察している。したがって,宇田川が「自由」を外国語に翻訳する時は日本固有の概念として「jiyu」等とする。
自由はもはや氾濫した言葉であるが,その真意の実践はとても難しい。
その難しさの一つに「与えられる自由」の問題がある。これは,自由の枠組を他人から与えてもらう事に疑問を覚えない問題である。
更に,「自由への執着」の問題がある。これは,自由という概念に拘るあまり不自由に陥いってしまう問題である。
また,「自由の形式化」という問題もある。自由は特定の行動形式ではない。たとえば,檻に入れられた動物も,生まれた時から檻で過ごすような教育を受けていれば自由でありうる。自由とは精神的問題であって,何をしているか,していないかの問題ではない。
鳥には鳥の,魚には魚の,獣には獣の自由がある。
これは,自由を外形で判断すべきでないという事でもあり,自由は教育によってその形を変えてしまえるという事でもある。