コロナ危機の真っ最中にある日本で,個人的に興味深い話題が最近あった。
政府から報道機関にいたるまで,重要な感染症対策用語を見慣れないカタカナ英語で表現していることを批判する声が多く上がったのだ。
このコロナ危機は社会に様々な変化をもたらすだろうと言われているが,日本語の「カタカナ依存症」を長年問題視してきた私は,これも一つの契機として捉えている。
すでに希哲館訳語の方針は『希哲辞典』である程度示しているが,特に問題視されたカタカナ英語であるオーバーシュート,ロックダウン,クラスター,ソーシャル ディスタンシング,さらにエンデミック,エピデミック,パンデミックといった基礎的な用語をどう翻訳するべきか,ここに簡単に記しておきたい。
そもそもカタカナ語の何が問題か
一般論として,日本語におけるカタカナ依存症がなぜ問題であり,どう取り組むべきか,ということについては,以前「なぜカタカナ外来語を訳すのか」という文章で書いているので,ピンと来ていない人にはそちらを一読してもらいたい。
コロナ危機に関していうと,伝えるべき多くの人に正しく意味が伝わっていないことが第一の問題といえる。専門用語として冗長で使いにくいという問題もある。
一部で,翻訳語では厳密な意図が伝わらない可能性があるとか,カタカナ語の方が印迫(インパクト)があり「脅し」になるというカタカナ語擁護の仕方もあるが,これはあまり良い考え方とはいえない。
まず,カタカナ語であろうが翻訳語であろうが,こうした事態における用語はしかるべき機関が妥当な定義の普及に努めるべきであって,カタカナ語でなければ本来の意味が見失われるということはない。和製英語というものを見ての通り,カタカナ語が原語からかけ離れた意味を持ち,かえって混乱するという現象はよくみられる。コロナ危機でも「オーバーシュート」を巡って同じ問題が持ち上がった。
また,「正しく恐れる」とよくいわれるように,危機において広く大衆に共有されるべき用語は,一にも二にも「物事の性質や重要性を正しく表現する」必要があり,油断させたり,必要以上に不安を抱かせるものであってはならない。その意味で,ぼんやりとした理解で使ってしまいやすいカタカナ語は不適切であるといえる。